津和野城
エリア:中国・四国
住所:699-5605 島根県鹿足郡津和野町後田477−20
津和野城は、高い山の頂に築かれた日本一の山城です。今では石垣しか残っていませんが、江戸時代前期の津和野城は、驚くほど壮麗でした。石垣は高く険しく、そそり立っています。その石垣の上には、三重の天守、二基の三重櫓、長大な多門櫓、厳重な櫓門などが、ぎっしりと建て連ねられていました。まるで、姫路城のような大城郭を、高い山の上に凝縮して造ったような、気高い姿でした。津和野城から城下町をはさんで反対側にそびえ立つ丸い山は、国の天然記念物および名勝である青野山(あおのやま)です。青野山の山裾には棚田が現在も残されており、津和野藩の家老であった多胡主水(たごもんど)が進めた開墾によって造られたことから「主水畑(もんどばた)」と呼ばれています。
広島大学名誉教授 三浦正幸
史跡・周辺情報
三本松城
能登の国から来た吉見頼行(よしみ・よりゆき)が永仁3年(1295)にここに城を築いたのが始まりで、その後3代直行(なおゆき)が増築した。慶長5年(1600)坂崎出羽守直盛が城主となったが、直盛はわずか16年の治世で失脚した。元和3年(1617)鳥取の鹿野(しかの)城主であった亀井政矩(かめい・まさのり)が着任、その後明治4年(1871)の廃藩まで亀井氏が城主を勤めた。明治7年に建物は解体され、石垣のみが残る。
三本松城出丸
出丸は本丸の北側にあって正中元年(1324)、吉見直行が本丸を増築の際に築造されたもの。江戸時代になって坂崎直盛(さかざき・なおもり)によって石垣が築かれ、織部丸とも中入丸、出丸とも言われた。周囲は塀で囲まれ、南東隅と北東隅に櫓が設けられていた。現在は石垣のみが残る。
御城坂吉野杉
この吉野杉は三本松城へ登る坂道の両側にあった。亀井家が吉野より苗木を取り寄せて植えたもので、すこぶる生育が良くて大木となり、明治4年(1871)の廃藩までは存在したとか。その後すべてが切り倒されたという。稽古槍を持って下山しているのは城の常番頭の竹中六郎太夫の息子の竹中真虎(まさとら)で、槍術練習のために藩校養老館へ行く途中の様子を描いたもの。
勢溜り
勢溜りは、市街から城郭へ登る道の麓のこと。左の杉の生い茂っているところを御中屋敷といった。この内側に堀があって、鴨を呼ぶために杉を植えたという。北側(右)の土塀の内側は藩主の居館で、この絵は安政年間の光景である。山の中腹にあるのは報時(時打)櫓で、元禄2年(1689)の正月10日に始めて太鼓を鳴らした。当時石川忠右エ門組の次兵衛というものが時打ちを命じられたと言い伝えられている。
城山の松茸
三本松城には松が多く植えられており、秋になると松茸がとれた。この図は奥方が松茸狩りをしている様子を描いたもの。常に山番を置いて警戒し、他人がこの山に入ることは禁じられていた。松枯れの影響で城山では近年松茸はとれない。
半峯亭
半峯亭は侯館の邸内の庭園にあり、城山の麓の松林の間に位置した。俗に月観(つきみ)の御茶屋といわれていた。 御殿裏の城山を少し登ったところにあって、青野山から昇る月を見ながら煎茶を楽しんだものと思われる。現在の城山観光リフトの下あたりにあったか。
侯館前の射圃
この射場は侯館(御殿)の南側、御書斎に面した場所にあった。庭と射場の間に紅葉の垣があり、秋になるととても美しい風情をみせた。 この絵は藩主が射術の練習をしているところ。現在は嘉楽園(からくえん)として町民の憩いの場となっているが、建物の跡には当時の物見櫓が移築され、往時の姿をわずかに残している。
釣月
釣月亭は御殿の庭園にある泉水(池)の中にさしかけて造られたもので、その天井には佐々木玄竜による「議」と書かれた大きな書が一面に貼り付けてあった。襖や障子、腰板にはすべて岡野洞山(美高)による雪中の山水の絵が描かれていた。床の間の落としかけは唐木の檳榔子(びんろうじ)であった。池の向こう側にある臥竜梅は老職多胡淡路が献上した名木で、もともと口屋丁(鷲原)の突き当たりにあった多胡家の別荘にあったものという。現在は町営住宅が建っている。
侯家庭園内の蘇銕
この蘇鉄は、御殿の庭園「釣月亭」の南にあり、根株がとても大きく、このような蘇鉄の巨木は稀にみるものであった。現在は町営住宅の敷地内となっている。
侯家庭園の梅林
御殿の御書斎の東側に梅林があった。満開のときは雪が降ったように美しく、奥ゆかしくいい香りが漂い、この上もないすばらしい光景であった。この絵は藩主が散歩して梅を観賞しているところを描いたもの。
御園内の花菖蒲
御殿の庭園内に半菖蒲圃があり、その苗は江戸近郊の堀切より取り寄せられたもので、毎年年内より水を干して培養に手をかけ、夏季になると水を引き入れて花が咲く。花の形は大きく、様々な色の花が咲くと藩主はすぐに絵師に絵を描かせた。年毎に形や色が異なり、実生のため異種ができることもあった。現在、殿町通りの掘割に花菖蒲が植えられ、6月中旬の開花期には美しい風情を見せる。
津和野藩侯館前
元和3年(1617)に亀井政矩が因州鹿野から移ってきたとき御殿は殿町にあったが、寛永2年(1625)に火災にあって、翌年今のところに建てられた。嘉永6年(1853)にまた火災により消失し安政元年(1854)に再建された。この絵は、藩主茲監(これみ)の奥室の貢子(みつこ)が元武神社(津和野神社)に参拝のため、東門を出るところである。絵に見える馬場先櫓は現地に、物見櫓は移設されて保存されており、往時の姿をわずかながら垣間見ることができる。
藩侯邸前より中島米廩を望むの図
米廩(こめぐら)は上中嶋と下中嶋との間にあり、家臣たちの飯用米として貯蔵されていた。橋は幸(みゆき)橋。米廩の右手には中山和助宅の物見、向こうに入る道路は堀内の入口。その左手は山道、多胡、松井、小松の4家が並んでいる。その後ろ方に見える松は、外と堀に沿って堤があった。遠景の正面に見えるのは妹山(青野山)、その右手は松林山天満宮。左のほうに見える道路は笹山六地蔵峠。
侯館前錦川のいだ
御殿の前、錦側の幸橋の下は禁猟区となっていて、無数のいだ(魚)が集まっている。その中にヒゴイも混ざっているが、出水のときに他家の園地から流れ出たもの。興源寺溝手通りに寛永5年(1625)に整備された井堰は、後田の田に灌漑するための設備であった。現在では取水口は川の水の減少により上流に移設されたが、現在も街中の水路への導水路として機能としている。
御屋敷北の御門
御殿の大手の門を描いたもの。片隅の櫓はひし形であったため、俗に菱櫓といわれていた。ここの土塀の屋根は切り石であった。現地には塀の石垣と思われる痕跡が一部残されている。
弥栄神社
弥栄神社は享禄元年(1528)に吉見正頼(まさより)が京都の八坂神社から城下の大谷下の原に勧請した。現在の地に亀井家が元和3年(1617)に祇園休み処を建立、万治3年(1660)に休み処を本社に造営し遷座した。嘉永6年(1853)の大火後の安政年間に亀井家によって再建されている。 川に面した石垣の上流部分には「亀の甲」と呼ばれる水の勢いを和らげる仕掛けがあった。神社地の石垣は積みなおしが見られるものの、津和野の河川では最も古い石積み遺構である。
祇園会鷺舞
弥栄神社の祭礼は毎年旧暦の6月7日と14日に行われ、御殿前の廣小路では、藩主も看楼(物見櫓)から見ていたという。鷺舞はその年の当屋及び殿町、原、中嶋所在の屋敷前や御旅処において行われた。曲は昔、坂田屋吉兵衛というものが京都で習ってきたものといわれる。吉兵衛は京都からの帰途、謡と曲が合わせたが合わないので、再度京都に戻り師匠へ問いただしたところ、「ヤアはかさゝぎの」の「ヤア」が抜けていたことが原因であると言われた、という逸話がある。現在では毎年祇園祭の7月20日と27日に行われている。
祇園会車芸
弥栄神社の祭礼は旧暦の6月7日から14日の間に行われた。町の中の5地区(本町、今市、魚町、万町、森横堀、清水町)が車を引き出した。この図は魚町の車で、車上に菅原伝授手習鑑車場を演じている絵である。里治は「祇園会は今もあるが、車芸はすでに絶えてしまった」と嘆いている。
祇園会に扮する流鏑馬
この流鏑馬の絵は、毎年旧例の6月7日の祇園会に行われていた花傘巡行に参加する5町のうち、本町のだしものを描いたもの。流鏑馬は鷲原八幡宮の祭礼に行われているものである。
祇園会通りものゝの内工ゝ無聟
毎年旧暦の6月7日の祇園会祭礼の日に行われる5町による花傘巡礼において、今市通りのだしものを描いたもの。
太鼓谷稲荷社
太鼓谷稲荷社は城山にある有名な社で、盗難その他失せるものある時にこの社に祈願すれば、返ってこないものはないといわれていた。ここを崇敬する者は多く、その名声は九州あたりにまでにも及んでいた。大正年間、山口線(現JR)の開通で参拝者も増え次第に神社域を拡大させて今日のような形になった。津和野の主要な観光スポットでもある。山の麓にあるのは、左が日輪社、右が観音堂。
大橋
下中島と殿町との間に架けられている橋を大橋という。この橋はもともと跳ね橋で、あまり例がない橋であったという。里治は「今はふつうの橋に架け替えられてしまった。どのような理由かは分からないが、大橋には擬寶珠(ぎぼし)がない」と嘆いている。いつごろ誰が作ったかわからないが、無いもの尽くしの謡が当時はやったという。「大事の大橋ぎぼしが無い、すミやの親方羽織が無い、牧さんふたりに女房が無い」と。
殿町
殿町は上級武士が住む所で、道路の幅が十二間(約21.6m)もある。西側は多胡(たご)、大岡、牧の三家老の屋敷、東側は藩校養老館の文武稽古場で、南から槍術、剣術、柔術居合場、続いて本学、兵学、礼学、数学、医学、儒学等の教場があった。嘉永6年(1853)の大火前には細野、布施田の屋敷があった。絵には現在ある掘割が描かれておらず、養老館の建物や塀の石垣の下が道路面となっている。掘割は明治期の国道整備でできたものと思われる。
養老館内馬術練習
殿町の養老館内にあって、藩主中小姓以上の子弟馬術を練習するところであった。この当時は、下間忠亮が教鞭をとった。土蔵は書庫で、この中に先聖孔子の銅像があって春秋釈典の儀式が執り行われていた。
牧氏の孟宗竹
牧氏の屋敷の後ろに竹やぶがあった。ここに生えている竹はその胴回りが三尺(およそ90cm)もあり、近くにはない稀に見る大きなものである。描かれた場所は現在も竹が繁茂しているが、竹林としては整備されていない。
殿町総門
この門は、城郭の北の境の関門、殿町より本町に出る門で手前に番所があった。昼も夜も番人を置き、他所の人が入ることが禁じられていた。本町側に制札があって、「是より内へ他所のもの入るべからず」と書いてあった。また、本町側から殿町が見えないように土塀があった。
永明寺坂
永明寺は、市街にある古いお寺である。文久2年(1862)、参覲交代の制度が改められ江戸の正室と子の帰国が認められた。藩主茲監侯の正室、貢子(みつこ)の君は同年11月に江戸を出発し、翌年正月に津和野の御殿にお着きになり、行列を組みはじめて永明寺を正式参拝された。この図は永明寺坂の途中の行列を描いたもの。乗物の紋章が「丸に葵」になっているのは、奥室の里方である讃州高松城主、松平家の家紋である。お付の女中が装っている帯は筒帯である。
覚王山永明寺
永明寺は、三本松城の西の麓にあって藩主の歴代菩提寺であったが、茲監(これみ)が葬祭を神式にあらためられた際に離檀となった。この図はまだ菩提寺であったときに藩主が参拝している様子を描いたもの。藩主は内門で駕篭(かご)を降りて歩いて本堂に向かう。内門の外ではお付の者たちが待っている様子を描いたもの。
蕪坂
蕪坂は津和野城の続き(北の端)、後田(城下)より虹ヶ谷(畑迫)へ越える峠で、麓に口屋あった。ここは市街の西の境である。昭和8年(1933)に堀家の出資によりトンネルが整備されたため、この峠は利用されなくなったが、今も峠へ通じる道や峠に遺構らしき場所が残っている。
原
原は津和野市内の郭内(丸の内)の一地名で、御殿の南、城山の麓にあった。ここに関門があって原の番所と言われていた。昼も夜も門番を配置して夜中の通り抜けが禁止されていた。関門の位置は不明だが、絵に描かれた右の石垣手前の水路は現地に一部が残っている。
常盤橋
津和野市街の杉片河(すぎかたこう)より上中島に架かる橋である。前にあるのは杉片河の土手。この土手には嘉永6年(1853)の大火までは杉の大木があって、これが杉片河の名前の由来となった。これは長州境の野坂峠から御殿を見られないように植えられたもの。以前は筋違い橋と言っていたが、享保元年(1716)6月に常磐橋という名前に改めたのである。今は鉄の橋になっている。現在は常磐橋と表記されている。
鷲原口屋外と
この図の中門までが津和野市街で、その外は市外であった。この図は鷲原崖よりも手前のところ。藩主は毎月6日に幸栄寺に参詣するのが習わしで、その行列の先頭が門の外に出たところを描いた図。土塀を支える石垣は道路整備により壊されてしまった。
鷲原崖の橋
この橋は津和野市街より外の鷲原崖の酒屋の前に架かっていたもの。大蔭へ渡る橋梁で、神田通り、長州の加年(嘉年)村に通じていた。今も車が1台通れる幅の橋が架かっている。
鷲原大夜燈
鷲原馬場の入り口に大夜燈がある。それを奉納したのは喜時雨組の小頭、足軽、上市組の小頭、足軽と記されている。これは喜時雨村が以前津和野市街の内にあった時のものか。この夜燈は今も残っていると当時里治も喜んでいる。後に道幅を拡幅する道路計画があったが、町の人の努力で道もこの燈籠も今も大切に残されている。
鷲原八幡宮其の他
鷲原八幡宮は城山の麓にあった。中央の八幡宮は元中4年(1387)吉見正頼(まさより)が鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請したもの。楼門と拝殿は竹田の番匠(ばんじょう:九州は竹田の大工の棟梁)が造ったと言い伝えられている。右にあった下山神社は亀井家が勧請したもので、明治4年(1871)に亀井家が東京へ移住した際に移転となった(現在、中座の丸山公園に下山神社がある)。他に馬見処、木馬堂、通夜堂、額堂、厳島神社、金比羅神社、愛宕神社、天満宮、淡嶋神社、鷺大明神などが紹介されている。
鷲原のやつさ
「やつさ」とは毎年旧暦の8月13日の祭礼で、いわゆる流鏑馬(やぶさめ)のこと。馬にまたがって走りながら的を射ることをいう。御神幸の後に行われ、2人の農夫がそれぞれ3回ずつ計6回馬に乗って矢を射った。津和野で「やつさ」と呼ばれるようになったのは、青原村の弥三郎(愛称が、やつさだったか?)というものが初めて乗ったことからとのことで、鷲原でも同じように呼ぶようになったという言い伝えがある。左右から群衆の見物人が扇をあげてハラアハラアと追うために、落馬することも多かった。この日は藩主の上覧があった。
鷲原愛宕神社の大杉
この大杉は三本松城の内にある愛宕神社の傍らにある。樹齢千年ともいわれるが、どのくらいの年月が経っているかわからない。愛宕神社は今はないが、大杉のたつ敷地の突端部に郭状の神社跡らしき場所が残る。もちろん大杉も健在で、社叢の中でもひときわ目立つ。
鷲原馬場
吉見頼行(よりゆき)が弘安7年(1284)に木曽野(旧木部村)から津和野に移り、正中元年(1384)に三本松城が完成、その後に造られた馬場である。長さがおよそ百十八間半(220m)、横が十三間(24m)である。この馬場において、毎月騎射による稽古があって、この絵が描かれたころは教師は中山和助と石河官左エ門の2人が務めた。
鷲原の桜
鷲原の桜は土手の松の間にあり、開花のころは里人にとって一番の遊覧場であった。誰が詠んだかわからないが、「もゆる春日に匂ふなる桜に名高き鷲原のうすくれなゐの綾ころも云々」という文もあった。また、「弥生の花見は寺田か鷲原か日くらしなま酔い気分で瓢箪ぶらぶら」などといった俗謡もあったという。
鷲原の紅葉
この楓は鷲原の土手の松の大木の間にあり、桜と枝をまじえて立っている。当時、秋になると楓の葉と桜の葉が競い合うように赤く色づき、得も言われぬ眺めであったという。今も秋になると紅葉や銀杏などが色づき、当時と変わらない秋の風情を見せる。
鷲原時雨の松
鷲原馬場の外の土手にある古い松を時雨松という。この松の下の土が雨の日は乾いていて、晴れの日は湿っていた。よって「鷲原の七不思議」のうちの一つとされていた。この松のあるところは民部の淵(鷲原橋の下の淵)に近い。幾久紀行(いくさきこう)という書物に「時雨の松も幾よの小深き蔭をうつすなる民部の淵は云々」の文がある。
鷲原片枝の松
鷲原馬場の中央、馬見処の前に大きな松があって、枝はたくさんあるが、片方側の枝だけに葉が繁茂していることから「片枝の松」といわれていた。これも「鷲原の七不思議」のうちの一つであった。参道脇の土手の上、小さな燈籠脇の松のことか。
鷲原幸栄寺
吉見正頼(まさより)が元中4年(1387)に鎌倉鶴岡より八幡宮を勧請した際、その隣に寺を建立して僧侶を置いた。はじめ福満寺といい、後に幸栄寺と改めた。亀井時代になって徳川将軍歴代の霊を祀り、藩主は毎月6日に参拝することが常となっていた。絵が描かれたころにはすでに廃絶して空き地となっていると里治は記している。
幸栄寺の隠棲
鷲原八幡宮の別當幸栄寺は始め福満寺と言われていた。幸栄寺の隠居処は馬場の北の外側、城山の麓にある三大師(現光園寺)の傍らの堀の中にあった。安政年間に住んでいた老僧は書に長けていた。
喜時雨崖
喜時雨崖は津和野市街の西、喜時雨村落と鷲原八幡宮との間にあった。中ほどに高田村へ渡る小さな橋があり、道の傍らには鉱泉が湧き出ていた。今も鉱泉はこんこんと湧き出ている。
喜時雨庄屋の前
城の西側にある村落を喜時雨といい、藩祖を祀る元武社があった。この図は亀井茲監が行列を組んで社参する様子を描いたものである。
縣社津和野神社
津和野神社は喜時雨村にあって、亀井家初代茲矩(これのり)を祀っていた。明和5年(1768)に茲矩の号、中山道月の神霊を埴安神社へ鎮祀し、京都の吉田家より武茲矩霊社の神号を送られた。文久元年(1861)の250年祭の大祭に当たり社殿を改築、元武大神の神号を送られ、元武社とした。明治4年(1871)に郷社となって喜時雨神社にあらため、明治43年(1910)に津和野神社と称して縣社になった。社殿の彫刻が鮮やかですばらしく、誠に稀な造営物であったという。本殿を含む建物は昭和25年(1950)に火災で焼失した。
瓦釜の松
喜時雨に「瓦釜の松」という松があった。この松は津和野市街の大橋よりちょうど一里のところにあった。平川徳十郎というもの御家人に抱えられ、安政の初年に館閣造営のための瓦をすべてここで製造した。徳十郎はその功績により江戸足軽となった。里治は「今はこの瓦釜はなくなってしまったけど、松はそのまま残っている」と記している。現在松はないが、登り窯の遺構がそのまま保存されている。
喜時雨瓦釜脇仮橋
この仮橋は幾久の手前、喜時雨瓦釜脇より高田へ渡る仮橋であった。奥に見える杉の森は幾久の鴨御猟場である。橋の位置は特定できない。
喜時雨寛助谷
津和野城の西側にある杉谷を寛助谷といった。それは、杉谷の麓に山番をしていた寛助というものの居宅があったので、里人がそのように呼ぶようになったのである。
幾久鴨御猟場
「幾久」は「いくさ」と読み、もとは「戦」と書いた。吉見時代の古戦場が地名の由来で、「戦」ではあまりにも殺伐としていることから文字を「幾久」に改めたという。現在もバスの停留所などに「戦」と表記されている。この頃は、藩主の鴨の狩猟場になっており、猟期が近づくと「御猟方」という役職の家臣2名がここへ出張して鴨を飼って猟に備えた。手前の屋根は御茶屋で、ここから網の綱を引いて鴨を一網打尽にした。
藩侯幾久鴨御猟略供
幾久鴨御猟場(第五十一図)に向かう藩主一行の図。まだ暗い早朝4時頃の出立だったので、高く掲げた提灯で道を照らしながら進んだ。この図は、猟場に向かう途中、「杉方河(すぎかたこう)」というところ(西周旧居付近)を通行しているところ。土手の上に並んでいる大きな切り株は、国境の野坂から藩邸が見えるのを防ぐために植えられた杉並木が、嘉永6年(1853)の火災で焼失したために伐採したもの。遠景に青野山も見える。
幾久の峠
津和野城山の西、喜時雨と中原との境にある峠を幾久峠という。従来はこの山の麓をめぐって通行していたが、幾久鴨御猟場が設けられたために通行が禁止され、新たにこの峠を通る道が作られた。城郭の裏側を眺められる。2人の旅人が峠で遠く青野を望みながら一服する姿が微笑ましい。
高田の四方藪
藩主宗家である亀井家には分家があり、高崎亀井家(こうさきかめいけ)と呼ばれていた。高崎亀井家の本邸は中座にある(第六十三図で別に描かれている)が、高田というところに別邸もあった。この別邸は文字通り四方を竹藪に囲まれていたことからこの名があり、絵にも鬱蒼とした竹藪が描かれている。8代藩主亀井矩賢(これかた)の著書『幾久(いくさ)紀行』に「昔この邸で和泉式部が小式部を産み、近くの白糸の滝の水を産湯とした」と書かれている。
高田の山のほとゝきす
「高田の山」は、津和野市街の西、鹿足郡高田村にある山で、通称「高田山」とも呼ばれた。古来、ほととぎすの名所として親しまれていたようだ。『幾久紀行』にも、「高田の山のほととぎすが繰り返し啼く夏の夜の云々」という文章がみられる。ほととぎすが鳴くと霜が明けるといわれ、春の訪れすなわち農作業の始まりを告げる様子を描いている。
白糸の滝
白糸の滝は、鹿足郡高田村にあり、水量が多い時には水が岩角を越えて直接滝壺に落ち、あたかも糸を乱す様子に見えることからこの名があるという。また、和泉式部がこの近くの四方藪で小式部を産んだときにこの滝の水を産湯に使ったという伝説もある。絵の左側には滝を眺めている武家の一行が描かれているが、床几に座っているのが藩主と思われる。藩主も時に涼を求めて訪れたのであろう。
神田潜り岩
「神田」は「じんで」と読み、名賀川(旧名は神田川)が津和野川(錦川とも)に合流する辺り、茶臼山の麓付近を指す地名である。潜り岩は、いつの頃か大きな落石があり、さらにその上に落石が重なったためについに路傍に大きな岩穴が出来た。その岩穴を人々が潜り抜けて通行するようになったところから「潜り岩」と名付けられたものである。現在は、この潜り岩の明確な場所や痕跡はよくわからない。
茶臼山
茶臼山は大蔭というところにあり、麓の西側を神田川(じんでがわ)が流れている。「茶臼山」という名の由来は、山の形状が、茶葉を挽く道具の茶臼に形が似ていることであろう。『幾久紀行』にも、「水にもまるる茶臼山挽木にあらで薪樵る云々」(「茶臼山と言っても挽木を取るのではなく、樵は薪を取っている云々」というほどの意味か。「挽木」とは茶臼に使う棒のこと)という文がある。
陶ケ嶽
陶ケ嶽は、津和野市街南の大蔭と呼ばれる地にある山。もとは大蔭山と言うが、吉見正頼が三本松城(津和野城)主だった時代に、山口の大内氏を下剋上で討った陶晴賢が津和野攻略のためにこの山に本陣を構えたことから、のちに「陶ケ嶽」と呼ばれるようになった。吉見・陶両軍は数度の激しい戦闘を交えながら約5か月間にらみ合いを続けたのち、和睦を結んだ。このとき陶軍が置き去った茶釜や鐘などがここから見つかっている。
野坂
津和野市街の南、長門国との国境にある峠を野坂といった。「長門両国国界」の標示杭が立てられていたという。里治は解説文で、道の中央にある石(絵の奥に小さく描かれている)は俗に「鼻そぎ石」と呼ばれるものだ、と書いているが、それ以上の説明はない。津和野町史には「断髪岩」とも。罪人の刑罰に関係するものかも知れないが詳細は不明である。街道に沿って植えられた松並木は、往来する人々に心地よい日陰を提供したと思われる。
桂川の川柳
桂川は津和野市街の南方、大蔭を流れる川で青野山の麓から津和野川に注いでいる。近くには風呂屋稲荷という神社の痕跡があり、辺りに川柳が多く生えている。8代藩主亀井矩賢(これかた)著『幾久紀行』にも、「桂の川の川柳云々」という文章がみえる。里治は、この川の豊かな水を利用する水車小屋を多く描くとともに、その周辺に広がる水田や盛んに行き交う里人たちを描写している。
中座庚申堂
中座庚申堂は津和野市街の東南にあり、この土蔵は籾を貯蔵するものである。この地は長門の国へ通ずる主要な往来である。札守の箱は、ここが市街の南側の境界であることを示している。城下の東西南北すべての境界に札守の箱が建ててある。このうち「中座」は現在もある地名であり、「庚申堂」は全国的にみられる神仏習合的な民間信仰である庚申信仰のお堂のこと。「札守の箱」は「津和野市街絵図」にも描かれている。
高崎邸
高崎(こうさき)邸は、津和野藩主家亀井家の分家「高崎亀井家」の本邸である。津和野市街の中座にあり、描かれている門は東側の表門である。裏門は北側にあり門内に中仕切り門もあった。邸宅は茅葺きだった。明治2年(1869)正月11日、火災によって失われたため、現在この地は児童公園や集会所が設けられており、りっぱな石垣の遺構のみが当時を偲ばせる。この東側表門付近を指す「本門前」という地名は今日も残っている。
高崎の松
第六十三図の高崎亀井屋敷を囲む土塀の外側、絵の右側に描かれている中座橋のたもと近くの路傍に数本の古木の松があった。人々はこれらの松を「高崎松」と呼んで親しんでいた。絵にもあるとおり、古木ゆえに垂れた枝に柱を建てて支えていた。昭和60年ごろまでは健在だった。絵の中で松の下を、天秤棒を担いで歩く人が描かれているが、この人は松茸か何かを行商しているのであろうか。
横堀米廩
森鷗外生家の住所を当時の表記法で記せば、「石見国鹿足郡町田村横堀」。この「横堀」という地名の起源となったのが、この絵に描かれている堀である。絵の中で手前に横向きに大きく描かれ、蓮で埋まっているのが横堀で、横堀から垂直方向(絵の手前から奥側)に伸びているのが、城の外堀として作られた本堀である。本堀の長さはここから五百間(約900m)あったという。米廩(蔵)は藩の御用蔵で、鷗外宅の真向かいにあった。
上中島より原の裏を望む図
上中島(かみなかじま)とは、錦川(津和野川)に沿い、常盤橋東側から幸橋東側までの地名である。常盤橋西側の原というところの裏手の川辺に物洗い場があり、これを俗に「汲み地(くみぢ)」と呼んだ。常盤橋脇から村田家、久野家など合計六家のくみぢが並んでいる。里治は、それらに続けて、普請方屋敷、広小路、物見櫓などを描き、一番奥側に小さく幸橋を描いている。
鳴滝
津和野市街の町田というところに瀑布(滝)がある。「鳴滝」といい、水落差が約16mである。この滝の水はとても清いので、近くの滝の前、町田、中丁、横堀などに住む人々はこれを飲用としている。古くは成就院という修験の寺や文殊堂があったが、里治がこれを描いた大正2年ごろは琴平神社があった。この滝は別名「仁王洞の滝」とも言った。滝の近くにある洞の中には蝙蝠が多く生息している。
堀内御番所の景
津和野市街の横堀から森町(現在の「森村」)にかけて外堀があった。その外堀の中央辺りに森町から入る門があった。この門内を「堀内」と言ったので、この門(番所)を「堀内御番所」と呼んだ。里治は「この番所は安政の景をうつせり」と書いている。津和野市街全体で、門は、原、上中島、堀内、森、殿町の5か所に設けられており、午後6時から午前6時までの間は通行が禁止された。このうち森と殿町の2門は「総門」と呼ばれた。
森の本町下モ手
この絵に描かれた、津和野市街の森町の中心部辺りから森総門までの間の外堀沿いは、多くの旅人らが盛んに往来する道路だった。堀の向こう岸の土堤は嘉永6年の大火までは竹藪だったが、その後松が植えられた。里治は「この絵は安政から明治4年の頃の光景だ」と解説している。往来を行き来する人々を見ると、様々な服装、職業、階層の人々が描かれており、当時の時代感を彷彿とさせ、興味は尽きない。
森総門
森総門は、津和野市街全体に五か所ある門のうちの一つである(六十八図でも説明)。森町にあるので「森総門」と呼ばれた。昼間は見張り番2人が常時詰めており、夜中には門戸を閉ざした。もし出入りしようとする者があれば、その氏名を確認したうえで不振な点がないと分かれば通行を認めた。門前には、「是より内へ他所もの入るへからす(ここから内へは、よそ者は入ってはならない)」の立て札が設けられていた。
松林山天満宮
松林山天満宮は、津和野市街東の山腹にある。寛文3年(1663)に家老・多胡主水が新たに御神体をここに勧請したと伝えられ、それ以前は後田にあったという。絵の中央に描かれた2棟の社が天満宮である。天満宮の左上にある小さな鳥居のある社は大神宮という神社であり、その奥の山頂付近にあるのは愛宕神社だという。しかし、里治がこの絵を描いた大正頃ごろにはそれらはすでになく、天満宮のみがこの山にあったようだ。
天神祭
松林山天満宮の祭事は、毎年陰暦4月14日から17日にかけて、津和野下市の弥栄神社の御旅所に神輿をかつぎ出して行われた。この絵は、14日の御神幸で神輿が錦川を渡御する際の光景である。こちら側の川岸には多くの提灯を掲げて見物の人たちが見守っている。また、川の中では、神輿をかつぐ人達がたくさんの松明を振っている。かつぎ手も見物人も口々に「ヨイサアチョイサア」という掛け声を勇ましく発したという。
三軒屋の夕立
三軒屋は、津和野市街からおよそ300m北にある里の名で、寺田村へと続くところである。里治は解説文で次のような句を紹介している。「夕立や俵が駆る三軒屋(その付け句)エゝくっそふ分銅屋に油徳利忘れた」分銅屋は津和野本町にある、びん付け油などを販売する老舗である。買い物帰りに三軒屋辺りで夕立に見舞われた上に、分銅屋に油徳利を忘れたのを思い出して悔しがる庶民の光景がユーモラスかつ活き活きと描写されていて楽しい。
寺田の蛍狩
寺田は津和野市街の北にあり、錦川(津和野川)に沿った縄手(あぜ道、または真っ直ぐな長い道のこと)が八丁(丁は町と同じ、約870m)も続き、夏には多く蛍が飛び交うので、津和野市街から多くの人たちが集合して蛍狩りをしたところである。寺田は第三十九図「鷲原の桜」で、鷲原に並ぶ桜の名所としても紹介されており、春は桜、夏は蛍と、趣深い里として親しまれていたようだ。
松尾谷の景
松尾谷は鹿足郡直地村のうち北西にあたる高地にあり、春秋には雉が群集するところである。その為、殺生方という役職の者にいつも雉を飼い付けさせていた。時折お殿様が御狩猟にお出掛けになることがあったが、その時は、寺田村から坂道を御駕籠で登って来られ、途中の御駕籠建場というところで御駕籠を降り、そこからは徒歩で向かわれた。御出立はいつも午前4時頃だったため、高揚げ提灯を用いていた。
七曲りの釣魚
寺田より和田村に至る川沿いの地を、里人は七曲りと呼んだ。川が幾重にも曲がっている。釣り人は寺田より七曲りを釣り下り、和田に出てから升峠を越えて城下に戻った。それを和田廻りと呼んでいた。各自百匹前後の魚を釣ったとあるから、魚影は濃い。親子で魚釣りを楽しむ姿は、今も昔も変わらない、微笑ましい姿である。フナやハエの料理が、さぞ膳を賑わせていたことだろう。現在の七曲りはすっかり水量が減った。
小直の雄瀧
津和野城下町から日原地区に向かう途中に小直(おただ)という土地がある。その山中に渓谷があり、渓流に落ちる雄瀧、雌瀧という滝が2つある。百景図では、遊歩道の手前側にある滝を雄瀧と称している。頭上から落ちてくる瀑布を受け止めるかのように、見上げる瀧。赤い岩に伸びる白糸のような流れが美しい。
小直の雌瀧
遊歩道の奥側にあるのが雌滝。藩主隠岐守玆監(おきのかみこれみ)候しばしば遊覧ありし処なり、と里治は記している。雌滝は斜面を滑るように降りてくる水を間近に見ることができる。太く白い流れが印象的だ。印象が異なる滝がこれだけ近くに2つあるのは珍しい。百景図にはここを含め滝が4か所描かれているが、藩主はよほど滝を愛でるのが好きだったようだ。
龍法師の塒
龍法師山は津和野市街の東、青野山のふもと南側に位置する三角形の形をした山である。晩になるカラスがねぐらにする処と里治は記している。夕方なると決まったようにカラスが群れをなし、カアカアと鳴きながら龍法師の山に消えていく、そんな景色の絵であろうか。カラスが鳴くから帰ろうと歌にあるように、それを見た子どもたちも家路を急いだに違いない。
妹山の景
当時は青野というより妹山という呼び方が通りが良かった。なだらかな山の稜線が、優しい女性の姿を連想させるからであろうか。人麿の歌に詠まれた妹山、谷文晁に描かれた妹山、山王権現を祀る霊山としての妹山、花の名処として町人に親しまれた妹山、遠く日本海では漁師が山立てに使った妹山、藩士の鍛錬の場にもなった妹山、まさに津和野のシンボルである。
青野の景
青野山は標高908m、白山火山帯に属する火山である。正面の左側に大きな溶岩崩れの跡があり、里人はそれを「鯛の背」と呼んでいた。百景図では位置関係にかかわらず、青野山を描いた時は「鯛の背」が描かれている。その下にある広い原野が青野河原である。秋は七草が咲き乱れ美しい景色だ。しかし、草刈りのもの以外に訪れるものは少ない。里治は「草刈りの見るのみ惜しき花のかな」と詠み、この景色を惜しんだ。
青野の虹
青野の山から松林山にたなびく大きな虹をとらえた。虹は夕日が沈もうとしている時によく現れると里治が記している。夕立に洗われた薄暮の空、青野から立ち上がる虹の姿を、城下では幾度となく眺めたことだろう。想像するだけで美しい。最近はこのような美しい虹を見ることが少なくなった。
ごんどうじの蕨
柿木のごんどうじはワラビの宝庫だった。描かれているのは、現津和野町と吉賀町の町境付近の峠の風景で遠くには小高い山々が連なっていて、山深い。津和野から二里余もある山中に、大勢の者が出かけたとある。最も大いなるワラビの生ずるところは釜ヶ溢と、細かい場所の紹介まで記してある。なお、藩主は蕨餅が好きだったという文献も残っている。
きまんごくの景
きまんごくは、柿木と津和野中座との境の山中である。鹿が多く生息していたとある。狩りをする者は、宵のころよりこの山に入り夜明けに至ったとあるから、暗いうちに猟をしていた。津和野市街からは東南にあたりいと近しとあるから、中座からは直ぐに行けたようである。鹿は絵で見ると何とも美しい姿だが、農民にとっては野山を荒らす害獣で、退治せずにはいられなかった。
吉賀の猪
吉賀は山奥で猪が多く生息していた。雪の深い冬は、食を求めて里近くまで出てくるので、里人は槍や鉄砲で猟獲していたと記している。藩主狩りの巡見の時、狩人が取り逃がしたが、「こいこい」と手を挙げて招けば、猪が振り返って突進してきて、狩人の構える槍に自ら突きかかって斃れたと、何とも面白い逸話が記されている。今も昔も、猪の被害に農家は泣かされている。
左鐙の香魚
日原の南、左鐙の畳石と呼ばれる河原の景である。川は高津川の上流、地元では吉賀川と呼んでいる。おびただしいほどの鮎が描かれているが、当時はこうした天然物の鮎が、川面を埋めるほどのに遡上していた。闇夜に網を張り、たいまつの火を振って追い込み、余す残らず猟したとあるから、まさに一網打尽である。また、この辺りは平家の落人伝説が伝わっている。
枕瀬の渡舩場
枕瀬村から日原村へ向かう渡し船である。その後須川、美都を抜け飛び地である今市、日貫(現浜田市)と道は続く。枕瀬村は津和野藩領、日原村は銅山を抱える幕府領であった。柴船に乗せた荷物は、左鐙辺より伐り出した薪とある。銅の精錬には多くの燃料を使っていたため、そうしたことに利用される薪だったのかもしれない。日原は銅やたたら、ロウ等の生産が盛んで商業が栄え、人や物資の流通には船が多いに活躍した。
青原驛
徳丈の峠を越すと青原の渡船場へ出る。ここは往還本街道の宿駅となっており、道を挟んで両側に宿屋や商家などが建ち並び、当時は大変なにぎわいだった。たたらで財を成した原田庄屋が住んでいたのもこの地である。絵は青木屋という歇家(やどや)の前で、馬夫が馬に乗せる荷物の荷づくろいをしているところである。益田方面に向かうには、一旦宿の前の枕瀬川を船で渡り、対岸の添谷から歩かねばならなかった。
横田の渡舩場
江戸時代は、徳川幕府の命令で河川に大きな橋をかけることが禁じられていた。一方で人や物資の流通は盛んで、高津川のような物資を運ぶ大動脈には、街道の接点や横田(現益田市)のような大きな集落には渡船場が発達した。大きく手を振りながら船を見送る人の寂しさが、ぽっかり空いた空間のように描かれた川面と相まって、哀愁を漂わせた絵となっている。
高津の渡舩場
須子(現益田市)という集落から高津へ渡る渡船の様子を描いた。多くの人が乗船しているが、人丸神社への参拝客かもしれない。高津には「古川」と呼ばれる汽水湖があり、魚介の養殖が盛んで、塩作りも行われていた。北前船の寄港地でもあり、高津川流域の物産が全国へ流通した。明治23年(1890)には、橋がかかり渡船場なくなった。現在は、大型の商業施設が林立する新商業地となっている。
高津人丸神社
人丸とは万葉集に数々の歌が収録されている柿本人麻呂のこと。石見国高津鴨島で没したと伝えられている。津和野藩第3代藩主亀井茲親(これちか)が天和元年(1681)に、人麻呂が詠んだ歌にちなみ高角山に遷座した。拝殿は津和野城から遥拝できるように、津和野の方に向いている。もともと人丸神社は鴨島にあったが、地震で島ごと水没したという壮大な伝説にも彩られた神社である。
高津の筆柿及筆艸
実が細長く、墨を含んだ筆の穂先のような形をしている柿を筆柿という。筆草は、砂浜に群生するカヤツリグサ科の植物で、根茎が筆の穂先のような形になっている。この2つの植物が高津に自生しているのは、柿本人麻呂(人丸神社)の御神徳だと、里治は解説している。
高津蟠竜湖
高津の谷間を、風で運ばれた砂が堆積して、せき止めてできた淡水湖である。竜がとぐろを巻いたような形をしていることから、その名がついた。冬季は水鳥が多く飛来して越冬する場所だったと里治は記している。現在は水鳥の影は少ないが、周囲のクロマツの林は健在で、百景図に描かれた風情は今も感じられる。蟠竜湖県立自然公園として整備され、今は憩いの場となっている。
高津浦連理の松
2本のクロマツの片方の枝が伸び、もう1本の幹に完全に癒着して「連理」の状態になっていた。琴平神社の境内にあり、古くから「夫婦松」として親しまれていた。里治は、筆柿や筆草と同様に人麻呂の神徳としている。連理松は昭和9年(1934)に国の天然記念物に指定され観光名所になっていたが、高津浜が松食い虫の被害にあい、平成9年(1997)に一方の株が伐採された。その6年後には残った株も伐採され、現在は記念碑で往時を偲ぶのみである。
年始家中出殿
毎年元日の寅の刻(午前4時ごろ)に津和野藩士が、年始の挨拶に侯館を訪れた。家老・中老・伍長・馬廻・中小姓・徒士・勘定格が集まっていたというから、家中総出の出仕である。提灯をかざし、その賑わいは正月の風物詩となっていたようだ。藩主への挨拶は卯の刻(午前6時ごろ)だが、その1時間前に習礼(リハーサル)を行っていたため、未明の大混雑になった。
正月十五日の墨塗り
津和野城下町では、正月15日に「墨塗り」という風習があった。女子は通りを行き来する男子へ墨やおしろいを塗りつけて、辟易する様子を見て笑った。男子は橙(だいだい)を手ぬぐいに包んで隠し持ち、女子の尻を「尻祝い」と言いながら打ち付けた。とても微笑ましい光景だが、解説に「旧習」と記しているところを見ると、この絵を描いた大正2年の時点では失われつつある風習だったのかもしれない。
御旗上覧
亀井家の家紋「隅立四つ目結」が黒々と染められた軍旗(幟旗)を指した軍を閲兵する儀式が毎年5月5日、藩候館の庭園馬場で行われた。前日に旗奉行新井七兵衛が御旗蔵より取り出した後は、足軽が寝ずの番をして旗を守った。御旗上覧は午前8時ごろに行われ、藩主は床机に腰掛けてご覧になった。絵から張り詰めた空気が伝わってくる。
盆踊
津和野踊ともいう。頭巾をかぶり、白い鉢巻を締めて団扇をさして、ゆったりとした拍子を優雅な所作で舞い踊る。中世に盛んに行われた念仏踊りの特徴を残している。幕末には旧暦7月14、15、16日の3夜に本町、森町、横堀町、清水町4カ所で行われた。当時は森町に演奏の名人がいたため、数多くの踊り子が森町に多く集まった。現在は、8月10~15日、津和野城下町各地で当時のままに執り行われる。
主侯の遠馬
津和野藩第11代藩主亀井茲監は、夏の夕刻にしばしば馬の遠乗りに出ることがあった。行き先は喜時雨や寺田である。遠馬は思い立ってのことで、供回りはごく少数に過ぎなかった。茶道方、草履取り、敷物刀掛け持ちが駆け足で追いかけていく。茶道方が手にしているのは火縄で、目的地で茶をたてた。はるか前を疾走る主君を追いかけているのは、若き日の里治だろうか。先立ったかつての主君への思慕が画面からこぼれてくる。