関ヶ原合戦決戦前夜
エリア:北陸・東海
住所:岐阜県大垣市郭町2丁目52番地
大垣城は美濃の守護・土岐一族の宮川安定によって、天文4年(1535)に創建され、当初は水門川の流れを外堀に利用した小規模なものでしたが、慶長元年(1596)伊藤祐盛が城主のときに天守が造営されたといわれています。関ケ原合戦の際には、美濃に進軍した西軍・石田三成が東西交通の要所となる大垣城に着目し、城主の伊藤盛正を説得して開城させ、西軍の本拠地としました。小西行長、島津義弘、宇喜多秀家らも入城し、赤坂の東軍と対峙します。決戦前夜の9月14日夜、西軍主力は決戦の場「関ケ原」へと転進。大垣城では、9月23日まで壮絶な攻防戦が繰り広げられました。その後、寛永12年(1635)、徳川家康の家臣である戸田氏鉄が城主となり、約230年間、戸田氏が治めました。昭和11年(1936)に国宝に指定されるも、昭和20年(1945)7月に戦災で焼失し、昭和34年(1959)4月に4層4階の天守が再建されました。
電話 | 0584-74-7875 |
料金 | 200円 ※大垣市郷土館と共通券 |
開館時間 | 午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで) |
休み | 火曜日、祝日の翌日、年末年始(12月29日から1月3日) |
平山 優
史跡・周辺情報
曽根城跡
織田信長の美濃侵攻では美濃を守る側として、その後は信長の家臣として姉川の戦いなどで活躍した西美濃三人衆のひとり、稲葉良通の居城跡。春日局の母は良通の娘で、父の斎藤利三も明智光秀に仕える前は良通に仕えており、利三の屋敷跡には碑が建っています。本丸跡には、良通が母親の菩提寺として建立した華渓寺が移されています。関ケ原合戦の際は、当時の城主・西尾光教が東軍に属し、大垣城攻略の拠点となりました。
駐車場 | 130台 |
長松城跡
長松城主・武光忠棟は西軍に属し、福束城の丸毛兼利の援軍に出陣しましたが、8月24日に東軍が赤坂に進出すると、その圧力に耐え切れず城を放棄して桑名に退散しました。その後は東軍の一柳直盛が入城し、大垣と垂井の連絡路を遮断したため、西軍が関ケ原に進軍する際に大きく迂回せざるをえませんでした。大垣市立荒崎小学校の正門脇に碑が建っています。
杭瀬川古戦場
9月14日、徳川家康の着陣に動揺する西軍の士気を高めるため、大垣城を出陣した島左近、蒲生備中ら約500は、一隊を伏せて杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊を挑発、出陣してきたところを偽りの退却で誘い込み、打ち破りました。広大な河川敷が往時を偲ばせるほか、赤坂町にはこの戦いで討死した中村家家老・野一色頼母を葬った兜塚も残っています。現在の日吉神社から笠木町、南一色町、福田町の一帯が戦場と推定されていますが、川筋の変化もあって定かではありません。
メモ | スタンプラリー<西軍>コース |
竹中氏陣屋跡(岩手城跡)
豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の嫡男・重門が築いた城跡で、創建当時を思わせる白壁の櫓門や水堀、石垣の一部などが残っています。この櫓門は、旗本では全国唯一の城郭建造物です。岩手の西にある菩提山は半兵衛時代の居城跡ですが、複雑な虎口や巨大な堀切、堅堀群など、大規模で高度な縄張りを持つことから。関ケ原合戦に備えて改築されたものではないかと考えられています。
垂井城跡
垂井城は西軍・平塚為広の居城で、為広は大谷吉継とともに挙兵を思いとどまるよう石田三成に諫言したものの、聞き入れられず、関ケ原合戦では西軍に属し、吉継に代わり大谷隊を指揮して奮戦しました。専精寺に石碑がありますが、推定地であり城跡は確認されていません。
浅野幸長陣跡(垂井一里塚)
岐阜城攻略の初戦で瑞龍寺山砦を落とした浅野幸長は、関ケ原合戦では南宮山の西軍に備えて布陣しました。中山道の一里塚の上に石碑が立っています。
池田輝政陣跡
岐阜城攻略で二の丸一番乗りを果たした池田輝政は、関ケ原合戦では南宮山の西軍に備えて布陣しました。石碑は、室町時代の史跡である春王・安王の墓と同じ敷地内に立っています。
吉川広家陣跡
毛利家の重鎮・吉川広家は兵約4,200で南宮山北麓に布陣しました。黒田長政を通じて徳川家康と内通し、関ケ原合戦の間、毛利秀元の参戦を最後まで阻止しました。勤労青少年ホーム駐車場に案内板が立っています。
安国寺恵瓊陣跡
毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊でしたが、兵約1,800は吉川広家の内応で動けないまま退却し、京で捕らえられて斬首されました。南宮山の麓にある西蛇溜池の東側に案内板が立っています。
メモ | スタンプラリー<西軍>コース |
南宮山・毛利秀元陣跡
西軍総大将・毛利輝元の名代として、約15,000の大軍を率いて南宮山に布陣した毛利秀元は、戦意はありながらも吉川広家の内応で動けずじまいでした。山頂一帯に見事な陣城遺構が残っています。
長束正家陣跡
豊臣五奉行の一人・長束正家は兵約1,500で南宮山東麓に布陣。毛利秀元に総攻撃を呼びかけるも吉川広家の内応で動けず、退却した後に居城の水口城が攻められて自刃しました。陣跡には案内板が立っています。
細川忠興陣跡
細川忠興は豊臣恩顧の有力武将でしたが、石田三成とは仲が悪かったと言われ、始めから徳川家康に与した。慶長5(1600)年7月、家康が会津征伐のため大坂を留守にした。三成はこれを好機と見て挙兵し、自らの陣営に諸将を引き込むため、大坂に居るその妻子らを人質に取ろうとしました。 しかし、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶りました。さらに、父が守る田辺城は西軍によって包囲されてしまい、三成への憎悪の念は益々深まったとされます。 戦いの当日は約5千の兵を率い、中山道から黒田長政・竹中重門らが布陣する岡山烽火場の麓、ここ相川の南付近に布陣しました。戦いが始まると、黒田・竹中隊らとともに笹尾山の石田隊を果敢に攻め、最終的に壊滅させました。細川隊は、首級130余を挙げたといわれています。 忠興は多芸多才で、甲冑の考案でも知られています。当日は「越中頭形兜」を被っていたとされ、その姿は関ケ原合戦図屏風に描かれています。
大谷吉継陣跡
石田三成との友情が名高い大谷吉継ですが、徳川家康とも昵懇でした。はじめ会津征伐に加わるため、慶長5年(1600)6月に領国の敦賀を発ちましたが、その途中で三成に挙兵の秘事を打ち明けられました。吉継は、再三に渡り「無謀で勝機なし」と説得するが、その決意に打たれ、負けるのを承知で西軍へ与したといわれています。 9月3日、三成の要請を受け、美濃に進出し山中村に布陣。吉継は、正面の松尾山に布陣した小早川秀秋の動きを不審に思い、寝返った際の備えをしていました。 病を得ていたため、開戦後は後方で指揮をとり、藤堂高虎や京極高知らと戦いましたが、正午頃に秀秋が寝返り、大谷隊へ矛先が向けられました。これを予測していた吉継は、兵力で圧倒する小早川隊の攻撃を幾度となく跳ね返しました。しかし、自らの指揮下にあった脇坂安治らも寝返るに至っては支えきれず壊滅し、吉継は藤川台で自刃しました。大谷隊の壊滅で戦いの均衡は一気に崩れました。それまで善戦していた西軍諸隊は動揺し、総崩れの発端となりました。
大谷吉継の墓
大谷吉継は藤堂高虎、京極高知隊や裏切った小早川秀秋隊などと激戦を繰り広げましたが、次々と味方の武将も討死し、もはやこれまでと自刃しました。吉継の首は、忠臣・湯浅五助の手によりその地で埋め隠されました。 五助はその後討ち入りますが、藤堂仁右衛門に捕らわれました。その時、五助は主人の首の所在を藤堂に正直に伝えて供養を頼んでうえで討たれました。敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問に対して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り「大谷吉継の墓」をこの地に建てたとされています。
田中吉政陣跡
田中吉政は、約3千の兵を率いて細川忠興や黒田長政らとともに石田三成と戦い、激戦の末、最後は諸将と共同して石田隊を壊滅させています。 合戦後、徳川家康に、逃走した三成の探索を命じられた吉政は、古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜んでいた三成を捕縛する大功を挙げました。吉政は、同じ近江出身で親しい仲だった三成を丁重に遇したといい、三成はその礼として、豊臣秀吉から拝領し、最後まで佩用していた脇差「切刃貞宗」を授けたと伝わっています。その由来から後に「石田貞宗」と称され、別に伝わる「石田正宗」とともに、現在では国指定重要文化財として東京国立博物館が所蔵しています。
松平忠吉・井伊直政陣跡
徳川家康の四男松平忠吉と、その舅で徳川四天王の一人として名高い井伊直政は、ここより約200m東、現在のJR関ヶ原駅付近に約6千の兵を率いて布陣しました。忠吉はこの戦いが初陣で、直政が後見役を務めました。 関ケ原に布陣した徳川家直属の兵力は、家康の本隊約3万、他に本多忠勝の約5百のみ。家康の嫡男・秀忠が率いる別部隊は、未だ東山道(中山道)の途上にあり間に合あいませんでした。このため、先鋒は豊臣恩顧の福島正則に任されていました。 しかし、徳川家が先陣を切ることが重要と考えていた直政は、午前8時頃、忠吉とともに数十騎を従え、福島隊の脇を進み抜け駆けしました。正則の家臣・可児才蔵(吉長)に咎められるが、直政は初陣の忠吉に合戦の見聞をさせると弁明し、そのまま宇喜多秀家隊に近づき発砲。抜け駆けされた福島隊も続いて発砲し、戦いの火蓋が切られました。 戦いは東軍の圧勝で幕を下ろすが、直政と忠吉は戦いの終盤に戦地から脱出する島津義弘隊を追撃するうち、反撃を受け負傷してしまいます。二人はこの傷が原因で後に亡くなったといわれています。
小西行長陣跡
小西行長は、宇土城(熊本県宇土市)で肥後(熊本県)半国を領していたが、同じく肥後半国を治める加藤清正と政治的対立を深めていました。文禄・慶長の役の対立も絡み、これが文治派・武断派分裂の一因とも言われています。文治派の石田三成らが挙兵すると西軍に与しました。 本戦の当日は、夜明けまでに約6千の兵を率い、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。午前8時頃に開戦を告げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川逵安らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまいます。小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し総崩れとなり、小西隊も敗走。行長自身は春日(揖斐川町)方面へ逃走しました。 熱心なキリシタンで自害できなかったと言われ、19日に関ケ原の庄屋・林蔵主を介して自首し、この地を治める竹中重門の家臣の手で捕縛されました。 行長はその後、10月に三成らとともに京都の六条河原で処刑されました。
駐車場 | 15台 |
島津義弘陣跡
関ケ原の戦い当日、島津義弘隊1千5百余は、未明までに関ケ原へ入り、この地から北西約250mの薩摩池付近に陣を敷きました。開戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両軍にかかわらず打ち払う姿勢をとりました。 三成からは幾度も参戦を要請されましたが、使者として訪れた三成の家臣・八十島助左衛門が下馬しなかったことを無礼として、激怒し追い返しました。その後、三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候(今日の合戦は、各々が好き勝手に手柄を立てられるよう戦いたい。)」と呼応しませんでした。 一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返りにより戦況は一変。東軍の猛攻に耐え切れなくなった西軍諸隊は次々に敗走しました。孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫る中、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、撤退を決めました。 西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、東軍諸隊が群がる正面を突破し、徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃しました。
本多忠勝陣跡
本多忠勝は武勇の誉れ高く、徳川四天王の一人に名を連ねています。 関ケ原の戦いでは、東軍の軍監として約5百の兵を率いてこの辺りに布陣。伊勢街道を抑え、南宮山(垂井町)方面の西軍諸隊を牽制するとともに、福島正則ら豊臣恩顧の武将の諸隊と、桃配山に布陣する徳川家康本隊の間にあって戦況を睨んでいました。 南宮山の西軍諸隊は動かないと見切ると、徳川本隊の前進と合わせ自らも戦闘に参加しました。午後には松平忠吉・井伊直政らとともに敵中突破を図る島津義弘を追撃しています。 忠勝は「鹿角脇立兜」を被り、天下三名槍「蜻蛉切」を手に、肩には葬った敵を弔うための大数珠を下げ、その生涯57度の戦いで傷ひとつ負わなかったといわれています。
福島正則陣跡
福島正則は、幼少より豊臣秀吉に仕え、豊臣家を慕う気持ちは強かったといわれていますが、石田三成とは犬猿の仲で、会津征伐の途上で開かれた小山評定では真っ先に徳川家康への加勢を表明したといわれています。以来、常に先鋒を任され、美濃へ侵攻して竹ヶ鼻城(羽島市)や岐阜城(岐阜市)を攻め落としました。 戦いの前日も、東軍の先鋒として約6千の兵を率い、夜半に岡山(大垣市)を出陣。ここ松尾村付近に布陣し、東山道(中山道)を挟んで南天満山に布陣する宇喜多秀家と対峙しました。 午前8時頃、井伊直政と松平忠吉に抜け駆けされ、先陣の功を許してしまうと、直後に発砲を命じました。可児才蔵(吉長)を先鋒に、約3倍の兵力を擁する宇喜多隊へ攻めかかり、宇喜多隊の先陣・明石全登と衝突。一時は押されましたが、東軍諸将とともによく持ちこたえ、午後に西軍の敗色が濃厚になると宇喜多隊を突き崩しました。 陣跡碑は井上神社前にありましたが、後に春日神社に移されました。境内の大杉は樹齢800年といわれ、関ケ原合戦図屏風にも描かれています。
駐車場 | 6台 |
小早川秀秋陣跡
松尾山は標高293m、関ケ原合戦の主戦場を一望でき、遠くに東軍が集結した岡山(大垣市)、西軍の拠点・大垣城、毛利勢が布陣した南宮山(垂井町)等も眺め渡せ、両軍の動きが手に取るようにわかる重要な拠点でした。 小早川秀秋が戦いの前日9月14日に約1万5千の兵を率いて布陣しています。 秀秋は西軍に与しながらも、徳川家康に対して事前に内応を約束していましたが、戦いが始まっても迷っていました。家老の平岡頼勝や先鋒の松野重元の意見が割れていた上、眼下の西軍は善戦しているなか、午前11時頃に三成が上げた総攻撃の烽火も無視し戦況を傍観していました。 こうした秀秋の煮え切らない態度にしびれを切らした家康は、一説に、松尾山に向け鉄砲を放ち威嚇したといわれています。秀秋は遂に意を決し、大谷吉継へ矛先を向けます。これに追随し、松尾山麓の脇坂安治らも寝返ったため、大谷隊は壊滅し、西軍は一挙に崩壊しました。秀秋は東軍を勝利に導く大功を挙げました。 戦後はその功で備前・岡山にて大封を得ましたが、2年後、21歳の若さで没し、家は断絶しました。
駐車場 | 4台 |
徳川家康最後陣跡
慶長5(1600)年9月15日午前6時頃、徳川家康は桃配山に布陣していましたが、戦況が把握できないため、午前11時頃、笹尾山の石田三成本陣からわずか数百メートルのこの地に本陣を移し、全軍の指揮にあたりました。善戦する西軍にいらだっていた家康は、東軍に内応する約束をしていたにも関わらず、一向に動こうとしない小早川秀秋に業を煮やし、最後の手段として、松尾山の秀秋の陣に向け威嚇の鉄砲を撃ちかけさせたとも言われています。 正午を少し回った頃、遂に秀秋の采配が振られ、1万1千余の大軍が松尾山を駆け下り、大谷吉継隊に襲いかかりました。これで戦いの流れは決し、東軍の猛進に耐え切れなくなった西軍は次々に敗走、午後2時過ぎには総崩れとなりました。 その状況下、西軍で最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、突如この本陣前に猛烈な勢いで迫り、そのまま駆け抜けました。義弘は猛追する東軍から辛うじて逃れ、戦線を離脱しました。 これをもって関ケ原合戦は終結し、家康はこの本陣で首実検を行いました。
駐車場 | なし(近隣に岐阜関ケ原古戦場記念館Pなどあり) |
宇喜多秀家陣跡
五大老の一人だった宇喜多秀家は、当初から石田三成への協力を約束し、西軍の副大将を担っていました。 前夜に関ケ原を目指し、大垣城を出発した西軍諸隊の殿を務め、午前5時頃に南天満山へ布陣しました。 午前8時頃、宇喜多隊へ向け、松平忠吉を伴った井伊直政の一隊が発砲、続いて福島隊が攻撃を開始し、戦いの火蓋が切られました。宇喜多隊は西軍諸隊の中で最大の兵力約1万7千を擁し、戦意は盛んでした。明石掃部(全登)が先陣を務め、可児才蔵(吉長)を先陣とする福島隊と激戦を繰り広げました。 しかし、正午頃に小早川秀秋が寝返り状況は一変、宇喜多隊も総崩れとなる。秀家は秀秋の振る舞いに激怒し、秀秋との決闘を覚悟しましたが、全登に勧められ伊吹山中に逃れました。 逃走中、落ち武者狩りをしていた白樫村(揖斐郡揖斐川町)の郷士・矢野重昌に遭遇、その温情で匿われました。さらに島津家を頼り薩摩に落ち延びるが、後に徳川に引き渡され八丈島に流されました。戦い当時、28歳だった秀家は、流人として84歳まで生きました。
関ケ原古戦場決戦地
西軍は総兵力で東軍を上回っていましたが、開戦から積極的に戦っていたのは石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継らごく一部でした。西軍に与しながら、事前に東軍へ内通していた松尾山の小早川秀秋は去就を決めかね戦況を傍観。南宮山(垂井町)の毛利秀元は、やはり東軍に内通した一族の吉川広家に進路を塞がれ、南宮山麓の安国寺恵瓊ら諸隊も動くことができませんでした。小池村に布陣した島津義弘に至っては専守防衛の姿勢で敵味方構わず討ち払っていました。それでも、黒田長政らの猛攻を幾度も押し返した石田隊をはじめ西軍諸将は善戦し、正午頃まで一進一退の攻防が続きました。桃配山に布陣した徳川家康は、いち早く陣を進めて全軍を指揮しましたが、この状況に極めていらだったといい、煮え切らない秀秋に向け鉄砲を撃ちかけたと言われています。 しかし、秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなりました。その時、ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられています。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わりました。天下分け目と言われる国内最大級の戦いは、わずか半日程度でその幕を閉じました。
中山道赤坂宿本陣跡
江戸時代、中山道の赤坂地域は幕府により整備され、宿場町として栄えました。大名、貴族の旅館として設置された本陣は、現在公園となっています。また付近には、関ケ原合戦 東軍の総大将・徳川家康が布陣した岡山(現在の勝山)があります。東軍は岐阜城を落城させた後、岡山に堅固な陣を築き、そこを取り囲む形で赤坂、昼飯、牧野、荒尾などの周辺一帯に本多忠勝、福島正則、黒田長政などの東軍諸将が布陣しました。
山内一豊陣跡
旧中山道沿いにある「山内一豊陣跡」は、大きな松と、山内家の三つ葉柏の軍旗が目印。慶長5年(1600)、徳川家康の従い会津の上杉景勝討伐の軍のい参加した一豊は、関ケ原合戦に際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、野上に入ると、一豊らは一里塚より桃配山までの間の中山道左右に陣を置き、南宮山の敵に備えました。その後、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、家康の命令を受け、山内隊は有馬・蜂須賀の隊と共に前進して戦いました。
岡山烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡
岡山は標高164mの丘陵で、松尾山・笹尾山・東山道(中山道)・北国街道等が一望でき、戦いの最中も戦況がよく見渡せたであろう場所です。合戦当日の朝、黒田長政と竹中重門 の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣しました。重門は、はじめ西軍に与していましたが、岐阜城落城後、井伊直政の仲介により東軍へ転じました。また、南宮山の吉川広家、松尾山の小早川秀秋は、長政によって既に調略されていました。 午前8時頃に開戦すると攻撃の合図の烽火を上げ、細川忠興・加藤嘉明・金森長近らとともに笹尾山の石田三成を攻撃しましたが、三成の家臣・島左近(清興)の奮戦により幾度も押し返されました。長政は戦況を打破すべく、一隊を割いて笹尾山北側へ迂回させ、石田隊を側面からも攻撃しました。この策は功を奏し、左近は長政の家臣・菅六之助の銃撃で負傷したといわれています。一進一退の攻防が続く中、正午頃に秀秋らが寝返り戦況は一気に好転。西軍諸隊は総崩れとなって敗走しました。黒田隊は東軍諸隊とともに、なおも踏み止まっていた石田隊に最後の猛攻を仕掛けてこれを壊滅させ、ついに勝負を決しました。
藤堂高虎・高極高知陣跡
藤堂高虎の兵約2千4百と京極高知の兵約3千は、東軍の第二陣として夜半に岡山(大垣市)を出陣する。松尾山の小早川秀秋、山中村の大谷吉継らに備え、東山道(中山道)の南側に布陣しました。 戦いが始まると、両隊は不破関跡付近まで進み、吉継が指揮する諸隊と刃を交えていました。正午頃、秀秋が東軍に寝返って大谷隊に攻め入りますが、これを予見していた吉継はよく防ぎました。しかし、その直後に脇坂安治ら4隊も寝返ったため、包囲された大谷隊は耐えきれず壊滅してしました。安治らは、高虎から調略を受けていたといわれています。大谷隊の壊滅は西軍総崩れの発端となり、東軍を勝利に導きました。その功により伊予国(愛媛県)で加増されました。徳川家康は高虎に厚い信頼を寄せ、後に津藩へ加増転封されました。 高知もその功により、丹後一国(京都府の一部)を得ました。
長曾我部盛親陣跡
長宗我部盛親は兵約6,600で栗原山に布陣しましたが、戦わずして退却。金屋川原で東軍の徳永寿昌・市橋長勝に遭遇して大損害を被りました。陣跡には案内板が立っています。
兜塚
杭瀬川の戦いで島左近の伏兵に遭い、深田に足をとられたところを討ち取られた、中村一栄隊の家老・野一色頼母助義が葬られた場所。家臣の奮戦により首級は奪われることなく、亡骸はこの地に運ばれ、着用していた鎧兜とともに葬られたことから、「兜塚」と呼ばれるようになりました。
メモ | スタンプラリー<東軍>コース |
鳥頭坂
関ケ原の陣から敵中突破を図り、徳川家康の本陣をかすめて伊勢街道へと進んだ島津隊でしたが、東軍の追撃は激しく、先手を務めていた島津豊久が殿にまわり、鳥頭坂で井伊直政・松平忠吉らを迎え撃ちました。豊久は重傷を負いましたが、伊勢街道へと逃れました。豊久の勇戦をたたえる顕彰碑が立っています。
瑠璃光寺・島津豊久の墓
樫原にある瑠璃光寺は、三輪内助入道一斉が豊久の遺骨を納め、菩提寺とした寺で、古色蒼然たる豊久の位牌が安置されているほか、梵鐘にその経緯が刻まれています。また、寺の近くの森の中には、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる豊久の五輪塔が祀られています。
御朱印地遮那院跡
遮那院は天武天皇の勅願所として白鳳年間に創立されたと伝えられ、のちに弘法大師が再興させようと、大日如来、不動明王、愛染明王の三尊を彫刻し、本尊としたといわれています。関ケ原合戦の際、前哨戦となる杭瀬川の戦いに勝利した西軍・石田三成はこの戦勝を喜び、この遮那院門前で首実検を行い、後世、この近くに架けられていた橋を首実検橋と呼びました。江戸時代には、御朱印地として幕府から諸役を免除され、保護されてきたが、明治維新の神仏分離令により廃寺となりました。
お茶屋屋敷跡
お茶屋屋敷跡は、徳川家康が中山道沿いに造営した将軍家専用の宿泊施設で、慶長10年(1605)に完成しました。創建当時の城郭様式を偲ばせる土塁や空堀の一部が残っています。現在は個人所有となっており、数多くのボタンが植えられ、東海有数のボタン園として一般開放されています。
メモ | スタンプラリー<東軍>コース |
金生山神社
もと蔵王権現宮といい、吉野の蔵王堂から蔵王権現の御分身をお迎えし、虚空蔵菩薩の鎮守として祀られてきました。明治2年、現在の場所へ移転し、改めて安閑天皇を祭神として勧請しました。 関ケ原合戦の際、東軍の赤坂への進駐にあたり、赤坂宿の住民たちは、東軍の先手・藤堂玄番に対して、「諸事案内いたします故、放火乱暴などなきよう、何事も御用仰せつけられたい」と申し入れ、妻子は東光寺裏山の正法院地蔵堂に避難させ、働ける男性はみな東軍に奉仕しました。 「濃州赤坂宿記録」によると、このとき妻子の避難場所に当てられた地蔵堂の境内に、伊勢神宮の内宮と外宮の両社を建てて、「この度の合戦は当方(徳川方)御勝利にて、我等居宅に再び帰らさせ給え、左あらば両社へ月々御灯明上げ申すべし」と念じて無事を祈りました。
大垣城東門(旧内柳門)
大垣城は、南と東を大手(城の正面)、北と西を勝手(城の裏)とする要害堅固な城郭であり、総郭(堀に囲まれた内部)には、東口大手、南口大手、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の7つの門がありました。そのうちの1つで、大垣城の南西にあり、美濃路に通じていたのが、柳口門です。内側にあった内柳門は、明治初期までは現在の市役所近くにありました。その後、大垣藩主・戸田家別邸の門に転用され、天守再建に伴い大垣城の東門として再移築されました。石垣にはかつて使われていた石材が再び使われたと考えられる刻印を見つけることができます。
メモ | スタンプラリー<東軍・西軍>コース |