米子城
エリア:中国・四国
住所:鳥取県米子市久米町127 ほか
米子市の中心市街地にある標高約90mの湊山に築かれた米子城は、吉川広家が西伯耆の拠点支城として本格的に築城を開始し、慶長7年(1602)に中村一忠が完成させたといわれる、山陰で最初に築かれた近世初期の城郭です。
現在建物は残っていませんが、縄張りや石垣、枡形などの遺構が当時の形態をよくとどめており、また、米子城に関する文献や絵図資料なども数多く残されていることなどから、平成18年(2006)に本丸、二の丸、内膳丸が国史跡に指定され、令和3年には三の丸の一部(旧湊山球場)が追加指定されました。
天守跡からは、東に大山、西に中海、南に中国山地、北に弓ヶ浜半島と日本海、そして眼下には市街地が広がるというパノラマが一望でき、山城と海城の特徴を併せ持つ米子城のロケーションを実感することができます。
開館時間 | ※都市公園につき特に制限なし |
駐車場 | 三の丸駐車場(約40台)、湊山公園駐車場(約120台) |
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/17789.htm |
見学可否 | 可能 |
自治体のURL | https://www.city.yonago.lg.jp/4439.htm |
監修:米子市/広島工業大学工学部建築工学科准教授 金澤雄記
史跡・周辺情報
本丸
~地形を巧みに利用した巧妙な縄張り~
米子城跡 北東上空からみた本丸(米子市教育委員会提供)
米子城跡 本丸天守台と四重櫓台
米子城の本丸は中海に張り出した標高約90mの湊山の山頂にあり、360度の絶景が広がります。
本丸は、上段と下段の二段構造になっていて、上段の天守郭(くるわ)には城下からの正面に当たる東側に、四層五階の天守と、南東の三層四階の四重櫓が配されています。
上段天守郭への虎口は二か所で、正門は四重櫓台下の鉄(くろがね)御門です。櫓門を渡した内枡形で、外側には二重の外枡形を構える強固な防御構造です。
下段には北側に突出した遠見櫓、東北角に突出した番所郭が、西側に水手郭が構えられ、地形を巧みに利用した厳重な構えとなっています。また、遠見櫓台の北東隅部直下には内膳丸から延びる登り石垣が築かれています。
駐車場 | 三の丸駐車場(約40台)、湊山公園駐車場(約120台) |
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/17789.htm |
見学可否 | 可能 |
石賀本店善五郎蔵と外堀
~老舗の勢いを示す大型土蔵~
石賀本店 外堀側
石賀本店 入口
法勝寺町の石賀家は、約400年前に米子城下に移り住み、古着や陶器、漆器、仏具など幅広い商いをしてきた17代続く老舗です。
特徴的な大根島産の石土台に建てられた土蔵は明治24年(1891)の建築で、長さ20m×幅6mの土蔵造2階建、西から塗物蔵、米蔵、陶器蔵と連なり、東側は荷揚げ場と倉庫になっていました。搬入口の石段は現在3段分が見えますが、当初は6段あり、1m以上下りて米子城の外堀に通じていました。
搬入口の梁には、荷揚げ用の滑車や上下に可動する階段の止め金具が残っています。商都米子の面影を色濃く残す建物であり現在は、国登録有形文化財として、飲食店などに活用されています。
外堀は幅が6間(約11m)あり、城の守りであると同時に物流の大動脈でした。外堀沿いには倉庫が建ち並び、米子港から京橋を経て小舟が行き交い、産業文化を支えました。しかしながら、明治以降の陸上交通の発達により埋め立てられ、現在は「外堀通り」として整備されています。
休み | 店舗によって異なります |
駐車場 | あり(7台) |
URL | https://zengoro.wixsite.com/zengoro |
見学可否 | 可能 |
営業時間 | 店舗によって異なります |
平野屋呉服店
~文化の馨る老舗呉服店~
米子市中心市街地のほっしょうじ通りにある平野屋呉服店は、慶長3年(1598)頃の創業と伝えられており、県内屈指の歴史があります。現在の主屋は、天保15年(1844)に平野屋の本家にあたる三島屋が建設したもので、その一棟を明治中期に平野屋が譲り受け、現在まで受け継がれているものです。
店内に足を踏み入れると高い吹き抜けがあり、太い丸太で組まれた小屋組みが当時のままの姿で残っています。
主屋の2階には客間や茶室があり、当時の米子商人の文化を嗜む姿を垣間見ることができます。
また、裏口は赤らんかん小路に面しており、文政5年(1822)築のものを含む3棟の土蔵が連なり、当時の風情を伝えています。またその礎石は米子城の石垣と同じものを使ったと伝えられています。県民の建物100選にも選定されています。
休み | 木曜日 |
駐車場 | あり |
見学可否 | 可能 |
営業時間 | 10:00~18:00 |
城下町の小路
~歴史を伝える城下町の路~
米子では、戦国時代末期から江戸時代にかけて城下町の整備が進み、軍事用通路として、また生活用通路として小路(しょうじ)がつくられました。これらの小路には、寺院や有力商人の屋号などの名がつけられたものが多くあり、そこに住む人たちに長い間呼び親しまれ、町の歴史や出来事が込められています。
覚証院小路は、真言宗の金宝山松龍寺覚証院があったことから付いた小路名です。覚証院には時を知らせる太鼓があり、富くじが行われ、賑わっていました。明治3年(1870)に灘町の吉祥院に統合され、本尊の帝釈天像は秘仏とされ、60年ごとの庚申の年のみ一日だけ拝観が許されることになっています。加茂川にかかる覚証院橋を渡れば朝日町の入り口です。
西倉吉町と東倉吉町の境にある鉄砲小路は、米子城の鉄砲足軽が住んでいた五十人鉄砲町が外堀の内側にあったことから付いた小路名です。
覚証院小路と鉄砲小路とは一直線でつながらず、鉤型路となっています。これは城の守りとして見通しが利かないように設計された城下町特有の形状です。
URL | https://yonago-tourism.com/course.html |
見学可否 | 可能 |
加茂川地蔵と札打ち
~お地蔵さんが見守る米子のまち~
米子の町からは、四季折々に美しい霊峰大山の姿を仰ぎ見ることできます。この神坐す大山は『大山寺縁起』に語られる1300年前の昔から地蔵信仰の中心でした。
江戸時代になると大山に出現したお地蔵さんを敬う地蔵信仰は、大山の麓に広まり盛んになります。人々は長生きや子供の健康、病気治癒などの願いを地蔵に託しました。
米子城下町の外堀に注ぐ加茂川沿いや寺町にはそうした願掛け地蔵がたくさん祀られていますが、そのお地蔵さんに故人の戒名を記した紙の地蔵札を順番に貼っていく家族をよく見かけます。これは「札打ち」と言われ、身内に不幸があった時に、浄土に着かれるまでお地蔵さんにお守りいただくよう七日ごとにお地蔵さんを巡って、南無阿弥陀仏と書かれた白札を貼り、四九日には止めの赤札を貼る全国でも珍しい風習です。
「札打ち」は、日本遺産「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」のストーリーにもなっています。
URL | http://www.yonago-jizou.com/ |
見学可否 | 可能 |
寺町通り
~9つもの寺が連なる珍しい景観~
寺町は米子城下町、立町の北側の小高い古砂丘の上に作られた町です。
約420mにわたって、東から、福厳院、瑞仙寺、安国寺、妙善寺、妙興寺、実成寺、法蔵寺、心光寺、万福寺の9つの寺が道の片側に一列に並んでいます。宗派は、曹洞宗4、日蓮宗3、浄土宗1、浄土真宗1です。
城下町の北側防衛のために計画的に配置され、有事のときの兵を集める防衛拠点や臨時の出城の役割を担っていたと考えられます。また、中には城下町形成のための移住政策に伴い菩提寺として領内から移してきたものもあります。
これだけの数の寺院が並ぶ風景は全国的に類例が少なく、厳かな気持ちになります。また、この通りからは米子城がよく見えます。
URL | http://www.yonago-navi.jp/yonago/shitamachi/sightseeing/teramachi-street/ |
見学可否 | 可能 |
旧外江屋(米子まちなか観光案内所)
~城下町観光の拠点町家~
毛利の部将の末裔とする茅野氏は境港の外江から、江戸時代に灘町に移り住み、外江屋(とのえや)を屋号として古くは魚屋・問屋を、近年では畳屋を営んでいました。
木造厨子(つし)2階建の主屋は慶応2年(1866)の建築であることが棟札によってわかりますが、桁行きいっぱいに架かる太い丸太梁、緩い勾配屋根、より古い棟札の存在から、18世紀頃の建築を建て替えた可能性もあると考えられます。
柱・梁・壁からなる構造は当初のままで、奥行きの浅い床間が特徴的です。店舗部分はL字型の広い土間であり、中の間は吹抜けで神棚が置かれ、江戸時代の商家建築のたたずまいが伝わります。
平成30(2018)年に「米子の町家・町並み保存再生プロジェクト」の活動として2年がかりで内部が復元的に改修されました。現在は米子まちなか観光案内所として使用され、観光ガイドや物販、地域コミュニティの拠点にもなっています。
休み | 水曜日 |
駐車場 | 数台分あり |
URL | https://yonago-tourism.com/ |
見学可否 | 可能 |
営業時間 | 9:30~16:30 |
後藤家住宅
~廻船問屋の歴史を偲ばせる建物~
土間
客間
後藤家は加茂川の河口で、江戸時代を通じて廻船問屋業を営んでいた米子を代表する豪商です。江戸時代後期に数隻の大船を所有し、藩の米輸送等に従事していました。
後藤家住宅は近世中期の廻船問屋の歴史を今に伝える建造物として、主屋、一番蔵、二番蔵が重要文化財に指定されています。
主屋は正徳4年(1714)の建築と伝えられ、後に拡張増築されていますが、米子で残存する最も古い民家です。また、一番蔵、二番蔵も寛政期以前の建築と考えられています。
間口11間(約20m)×奥行9間(約16m)ほどある大型の町家であり、内部は複雑な間取りとなっており、面積の半分近くは土間と板の間で占められ、庇も表側だけでなく、加茂川側にもつけられるなど、物資の搬入など作業を考慮したつくりになっています。
主屋の屋根は、当時の米子の民家ではここにしかなかったといわれる本瓦葺きとなっています。県民の建物100選にも選定されています。
URL | http://www.yonago-navi.jp/yonago/shitamachi/sightseeing/gotou/ |
見学可否 | 外観のみ見学可能 (個人住宅のため内部は非公開) |
京橋
~城下町の内と外をつなぐ要の橋~
明治40年(1907)京橋架け替え記念(内町側より)
新修米子市史
京橋(きょうはし)は、城から京都に向けて出発する際に、最初に渡る橋に用いられる名称であり、城下町の表玄関の橋として整備されたものと考えられます。長さ9間半(約17m)×幅2間半(約4.5m)で、京橋を境に下流を米子湊、上流を加茂川と分けて呼んでいました。
京橋の南詰には大木戸が設けられており、その東側には制札場があって、藩からの禁制の文書などが掲示され軽い刑罰なども行われました。
また、橋の間近には、米子を代表する廻船問屋であった後藤家住宅が残っており、ともに江戸時代の米子城下町の面影を現在に伝えるものです。
米子の城下町は江戸時代から現在に至るまで大きな区画改変が行われていないことから、京橋をはじめとした橋や小路、加茂川沿いの街並みなど、往時の城下町を想起させる景観が残っています。
見学可否 | 可能 |
判屋船越家住宅
~良質な町家の佇まいが残る建物~
左:中の間の神棚 右:吊り上げ式の大戸
天神町の判屋船越家は、江戸初期に岡山から移り住み、米子城の外堀でもある加茂川南岸で代々船問屋を営んでいました。
現在の建物群は11代清太郎の代に新しく建て直された明治後期の建築で、道路前面に主屋が建ち、背面に土蔵2棟とその間に裏門を開き、屋敷のなかほどには枯山水の庭園が配置されています。主屋入口は吊り下げ式の大戸が旧式を伝えています。
通り庭は天井が張られず、小屋組をそのまま見せ、中の間は上部に神棚を設けるなど、江戸時代から続く米子の町家建築の特徴をよく伝えています。土間の神棚に船霊(ふなだま)様が祭ってあるのは船問屋ならではと言えます。
また、竈場、井戸場、風呂場、便所、味噌小屋が一列に並び、座敷側には上便所、上湯殿が張り出しているなど、質の高い町家建築の佇まいをよく残した建物です。
見学可否 | 外観のみ見学可能 (個人住宅のため内部は非公開) |
加茂川沿いの景観
~商都米子の風情を残す町並み~
島根県との県境にある鷲頭山を源流とし米子の市街地を流れ中海に注ぐ加茂川。 江戸時代には米子城外堀とつながり、当時、米子港を拠点とする水運も盛んだったことから、中海の沖に停泊する北前船から積み荷を艀で商家の裏口まで運ぶ水路としても利用されていました。
河口近くの灘町や立町、内町の界隈には米問屋・回船問屋などの屋敷が構えられ、川に面した商家の裏口に土蔵が建ち並ぶ姿は、現在でも往時の面影をとどめており、商都米子の風情として親しまれているものです。
土蔵の石垣の積み方やところどころに見られる彫り物など、蔵ごとの個性の違いを探してみるのも面白いかもしれません。
川沿いには八重桜の並木があり、春には、加茂川・中海遊覧船に乗って満開の桜に包まれるように水辺の花見遊覧を楽しむことができます。 また、加茂川まつりやライトアップなどのイベントにも活用されています。
加茂川沿いの土蔵群は、県民の建物100選にも選定されています。
URL | http://www.yonago-navi.jp/yonago/shitamachi/sightseeing/kamogawa-nakaumi/ |
見学可否 | 可能 |
米子市役所旧館(米子市立山陰歴史館)
~米子市制のシンボル~
昭和5年(1930)新築間もない庁舎
米子市立山陰歴史館蔵
昭和2年(1927)に市制を施行した米子市は、10万都市を想定して昭和5年(1930)に市役所を新築しました。設計は、早稲田大学建築学科の創始者として知られ、当時、庁舎建築の第一人者であった佐藤功一です。
RC造3階建で、正面中央に玄関を設け上部を立ち上げて左右対称のシンメトリーを基調としています。一階は石積み仕上げ風、上部は赤煉瓦風のスクラッチタイルを張り、2~3階通しの大オーダーの付け柱の近世ルネッサンス様式を基調とするシンボリックな建築です。
米子のメインストリート国道9号から見るその佇まいは、築90年を越えた現在でも当時と変わりません。昭和57年(1982)まで市役所庁舎として使われ、庁舎移転後は米子市立山陰歴史館として活用されています。米子市指定有形文化財、県民の建物100選にも選定されています。
料金 | 常設展観覧無料 ※企画展は有料の場合があります。 |
開館時間 | 9:30~18:00(最終入館17:30) |
休み | 火曜、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日) ※企画展開催中は開館の場合があります。 |
駐車場 | 米子市役所駐車場をご利用下さい。(駐車券をお持ち下さい。2時間まで無料です。) |
URL | http://www.yonagobunka.net/rekishi/ |
見学可否 | 可能 |
長田茶店
~創業200年を超える老舗茶屋~
岡山の勝山から戦国時代末期に米子に移り住み、長門屋の屋号で、江戸期から大正期にかけては茶屋のほか、茶室「松風庵」、酒造業、薬屋、質屋、長屋、貸し蔵など手広く商いを展開しました。
現在の店舗は、明治元年(1868)の建築で、店舗部分の上、虫籠窓のある天井の低い中2階、厨子(つし)2階ともいわれるスタイルは、町家のつくりとして江戸時代に普及したもので、明治時代末頃に総2階が町家の形として広まるまでの形態であり、加茂川周辺の古い町家の外観の特徴を伝えるものです。
店舗の奥、中の間には吹き抜けが設けられており、米子の町家の特色が見られます。これに続いて、奥の間、縁側、土蔵があり、2階には茶室と書院の間が設けられています。また、防火壁である「うだつ」があげられているのを見ることができます。
長田茶店では、まちなか観光案内所の歴史まち歩きコースのオプションとして、「抹茶・ぼてぼて茶御手前体験」をお楽しみいただけます。(要予約)
休み | 水曜 (テイクアウト専門和カフェ NagachaCafe1801は火曜・水曜) |
駐車場 | あり(10台) |
URL | http://www.nagatachamise.jp/ |
見学可否 | 可能 |
営業時間 | 9:00~17:00 |
鹿島茶舗
~米子城の改修にも関わった豪商~
鹿島家に伝わる「永代記録第一」によると、初代は岡山商人の高林三郎左衛門常吉で、米子へ小間物行商に来ているうちに立町に定住するようになったとされています。
四代目治郎右衛門の時、宝暦9年(1759)に藩内で起こった銀札騒動を機に米屋を開業しました。その後も穀物・醤油・質商や不動産など事業を拡大、発展させるとともに、米子町政にも大きく貢献しました。
また鹿島家は、文化・芸術にも造詣が深い人物を輩出しており、米子城代荒尾氏の10代・成裕が詠んだ俳句の短冊も見つかっています。
中庭にある鯱瓦は、幕末に米子城四重櫓の建物及び石垣の大改修が行われた際に鹿島本家・分家が多額の費用を拠出し、そのお礼に贈られたものです。
鹿島茶舗では、まちなか観光案内所の歴史まち歩きコースのオプションとして、裏千家の正式な作法を体験できる「抹茶作法体験」をお楽しみいただけます。(要予約)
休み | なし |
駐車場 | なし |
見学可否 | 可能(要予約) ※見学可能時間10:00~16:00 |
「中江藤樹先生成長之地」記念碑
~今も息づく近江聖人の教え~
「中江藤樹先生成長之地」記念碑は、江戸時代初期の儒学者であり、日本における陽明学の始祖とされる中江藤樹(1608-1648)が少年期の一時期を米子で過ごしたことを記念して建立されたものです。
中江藤樹は、生誕の地である近江国で学問と教育に励み、数々の徳行から、死後「近江聖人」と称えられました。その教えは武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透しました。
藤樹は9歳の時、当時の米子城主加藤貞泰の家臣であった祖父中江吉長に養子として引き取られ、加藤貞泰が大洲に転封となる間の約1年間を米子で過ごしたとされています。
記念碑のある場所は、藤樹の祖父吉長の屋敷跡地であるといわれており、記念碑の隣には藤の木が植えられています。
また、すぐそばには昭和30年代まで米子市立就将小学校があり、現在地に移転してからも委員会(児童会)を「藤樹会」と呼ぶなど、今でも中江藤樹の教えが受け継がれています。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/9662.htm |
見学可否 | 可能 |
岡本一銭屋
~一銭銅貨の意匠の看板が目印~
中村氏時代に整備された近世城下町の町割りと吉川氏時代以前の中世城下町の町割りの接合部にあたる鈎型の通り「中ノ棚曲がり」にある、昭和9年(1934)創業の駄菓子屋さん。昭和25年(1950)に開催された米子博覧会を記念して作られた1銭銅貨をあしらった看板が印象的です。
建物は明治初期の建築で、片側に通り庭を配し、店舗、中の間、奥の間が連なる典型的な町屋の佇まいを今日に伝えており、奥の坪庭には井戸や釣瓶なども見られます。
創業当時から子どもの小遣い銭で買える1銭の商品を揃えていたため、それが屋号になったと言われており、現在でも店内には駄菓子やあてくじ、玩具類が所狭しと並べられていて、子どもも大人も楽しめる立ち寄りスポットになっています。
休み | なし |
駐車場 | なし |
URL | https://www.lazuda.com/news/archives/1604 |
見学可否 | 店内見学可能 |
営業時間 | 9:00~17:00 |
坂口本家・坂口合名ビル
~近・現代の和洋建築を物語る建物~
坂口家は、藩政時代「沢屋」と称し、綿、木綿仲買業を営んでいましたが、明治14年(1881)に家督を相続した初代坂口平兵衞が家業を発展させました。
坂口本家の表通りに面した主屋は、江戸時代後期に建てられた町家建築で、防火壁である「うだつ」があげられています。さらに邸内には近代和風建築の傑作とされる建物が点在しています。なお、昭和22年(1947)11月28日には、昭和天皇地方行幸時の宿舎になりました。
坂口合名会社は明治28年(1895)に組織され、坂口合名ビルは昭和6年(1931)の建築で、中2階付の2階建て鉄筋コンクリート造です。屋上に風見鶏があり、石造の洋風建築の建物は坂口家の中核会社の建物として建てられ、全面にクリーム色の凝灰岩を貼り、入口両脇には円柱を飾る重厚な建物です。県民の建物100選にも選定されています。
坂口家を中心に、隣にあった今井書店本店など、尾高町は米子の近代文化発祥の地であり、経済人である一方で、文化人でもある人々が集ったところです。
見学可否 | 外観のみ見学可能 (内部は非公開) |
大寺屋船越
~アーケード街に残る商都米子の豪奢な町家~
紺屋町に大寺屋の屋号を掲げる船越家は、大寺(伯耆町)から移り住み、加茂川沿いの美吉、道笑町などの田畑開拓と併せて鉱山業を営んでいました。
本通りアーケードの中に西棟(明治中期)・東棟(江戸末期)の二つの主屋を並べ、さらに東側に切妻造妻入の土蔵が連続する見事な表構えを見せています。奥行きの深い敷地には主屋裏に庭を設け、外堀に面した土蔵と離れを設けています。東棟中央の吹き抜けの梁組みは圧巻で、良質な座敷の作りなど、米子の豪奢な町屋の様子をよく伝えています。県民の建物100選にも選定されています。
見学可否 | 外観のみ見学可能 (個人住宅のため内部は非公開) |
松田染物店
~江戸時代から続く染物店~
松田染物店 正面
紺屋町にある松田染物店は、江戸時代の元禄15年(1702)の創業です。今から300年以上前の江戸時代まで遡りますが、この年はちょうど赤穂浪士の討ち入りがあった年です。
紺屋町は、江戸時代に染物商が集まっていた町ですが、現在、紺屋町で染物を商っているのは松田染物店の1軒のみです。江戸時代には藍染が行われていましたが、現在では、筒描き染めと呼ばれる染色法によって、カラフルな大漁旗などが作られています。
筒描き染めとは、布を染め分ける境目の部分に、あらかじめ糊を塗って白抜きする技法で、昔は店の裏を流れる加茂川で糊を洗い流して作られていました。米子城の外堀にそそぐ加茂川が、町屋の暮らしと密接に関わっていたことがうかがえます。
松田染物店では、まちなか観光案内所の歴史まち歩きコースのオプションとして、「染物体験」をお楽しみいただけます。(要予約)
休み | 日曜・祝祭日 |
駐車場 | 近隣の駐車場をご利用ください。 (駐車券をお渡しします) |
見学可否 | 可能(要予約) |
営業時間 | 9:00~17:00 |
賀茂神社天満宮
~信仰を集めた米子産土社~
加茂町の賀茂神社天満宮は、米子の産土神、米子城鎮護の神として米子城主の厚い保護を受けてきた賀茂神社と天神町にあった北野神社(天満宮)が合祀された神社です。
江戸時代の例祭には、神輿は城下町中を巡り、祇園社(深浦神社)の前で船に乗り、加茂川河口で上陸して社に戻ったと伝えられる賑やかなものでした。また、神社への祈願によって八十八歳で子供を授かったという翁の米子の地名の由来に関わる話も伝わっています。
本殿はかつて米子城主であった伊予大洲藩主加藤氏が修復したと伝えられ、境内の井戸は米子三名水のひとつ「宮水」として有名で、上水道が整備されるまでは、この井戸水を車に積んで売り歩く人もあったといわれています。
駐車場 | あり(約10台) |
URL | https://www.kamoten.org/ |
見学可否 | 可能 |
宇気河口神社
~たなばたさんで親しまれる神社~
町の七夕飾り 新修米子市史
内町の中央付近に、宇気河口(うけかわぐち)神社があります。豊作祈願の宇気大明神と安産・長命祈願の河口神社が合わさり、宇気河口神社となったと伝わります。寛政年間(1789~1801)から「七夕祭」の神事が盛んとなり「たなばたさん」と呼ばれるようなりました。
それまでは、七夕の笹竹は加茂川に流していましたが、河口の京橋付近で川を埋め尽くし、海運に支障が出たため、加茂川に流すことを止め、宇気河口神社に持ち寄り七夕祭をするようになったと言われています。月遅れの七夕の8月7日には、願い事を書いた色取々の短冊をこよりで結び付けた笹をかついだ多くの人で賑わい、米子の夏の風物詩の一つとなっています。
駐車場 | あり(約10台) |
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/9696.htm |
見学可否 | 可能 |
本教寺
~古曳吉種ゆかりの寺~
本教寺は、米子城の築城が始まった天正年間に、米子城築城奉行であった吉川広家の家臣古曳吉種(こびきよしたね)が、亡くなった母の菩提を弔うために建てた「浄昌寺」が始まりとされています。
その後、古曳吉種は文禄の役に参戦し、朝鮮で戦死しますが、「浄昌寺」は吉川広家により灘町北東の高砂山に移転され、その時に寺号を「本教寺」に改められたといわれています。そして、中村一忠が城下町を整備した際に、現在地に移されました。
最初に古曳吉種が建てた「浄昌寺」の場所はわかっていませんが、現在も本教寺の墓地には、古曳吉種の墓が祀られています。
見学可否 | 可能 |
凉善寺
~倉吉から移された寺~
凉善寺は、倉吉市岩倉にあった「法界山大蓮寺」を中村一忠の家臣横田内膳が現在地に移転させたもので、元禄年間に寺号を「凉善寺」と改められました。
岩倉町は米子の城下町を建設する際に、倉吉の岩倉城の城下町に住んでいた人々を招いて造られたもので、その時に寺も一緒に米子城下へ移されたと言われています。
山門を入って左手にある円光大師堂には、浄土宗の開祖、法然上人を祀った円光大師像が安置されています。
URL | http://ryozenji.jp/ |
見学可否 | 可能 |
総泉寺
~米子城主ゆかりの曹洞寺院~
愛宕町の総泉寺は、寺の縁起によると尾高城下から米子城主中村一忠によって米子城下に移されて寺号を大龍山総泉寺とし、一忠の母曹渓院清心総泉大姉の菩提寺として寺領100石を与えられていました。中村氏断絶後も城主池田氏の菩提寺となり「揚羽蝶紋」に使用を許されています。さらに伯耆西三郡の寺院を統括する僧録所としての高い格式を誇りました。
また、出雲街道に面して戦略的な拠点を占め、米子城騒動の時には、援軍にかけつけた松江藩堀尾吉晴の軍勢はここで待機したと伝えられています。境内には竹島(鬱陵島)渡海で名高い海運業者・大谷甚吉の墓などもあり、米子第一の曹洞宗寺院として豪壮な佇まいを今もとどめる巨刹です。
駐車場 | あり |
URL | http://www.yonago-navi.jp/yonago/shitamachi/experience-culture/sosenji/ |
見学可否 | 可能 |
感応寺
~中村伯耆守の菩提寺~
中村一忠墓所
慶長5年(1600)伯耆18万石の城主として駿河国駿府から移ってきた中村一忠は、同行した日長上人によって、駿河国にあった感応寺を城山の背後に位置するこの地に移し、中村家の菩提寺としました。
その後一忠は慶長14年(1609)に20歳の若さで病死し、感応寺裏山の墓域に葬られ、このとき殉職した2人の小姓垂井勧解由と服部若狭とともに3人の木像が墓域の御影堂に安置されました。
明治42年(1909)に老朽化した御影堂を廃し、木像は本堂に移し祀られ、墓域は新しく「故伯耆守中村一忠公之墓」として整備されました。また、昭和34年(1959)350年祭の際には、墓域に五輪塔が建てられました。
今日の米子市の基を築き、米子城で亡くなった中村一忠の関係資料として、墓地と木像は市指定史跡となっています。
駐車場 | あり |
URL | http://www.yonago-navi.jp/yonago/shitamachi/experience-culture/kannouji/ |
見学可否 | 可能 |
旧角盤町郵便局舎
~外観洋風・内部和室のハイカラな建物~
角盤町3丁目の角盤文庫(本屋)は、通りに面して建てられた寄棟造・妻入・赤桟瓦葺き、木造総2階建ての洋館で、昭和10年(1935)の建築と考えられています。昭和59年(1984)までは特定郵便局として親しまれていた地域のシンボル的な建物です。特定郵便局とは、明治4年(1871)に始まった郵便制度によって、地域の有力者が土地・建物を無償提供し、自ら特定郵便局長として営んだ郵便局のことをいいます。
当初は自宅の1室を改造して使用していましたが、後に外壁を下見板張ペンキ塗り、正面に入口ポーチを設け、開口部は縦長ガラス窓にするなど、ハイカラな建物が新たに建てられました。店舗部分以外の室内は床間、畳敷き座敷など内部は和室という店舗兼住居です。
見学可否 | 外観のみ見学可能 (内部は非公開) |
法勝寺電車フ50号客車
~チンチン電車が行く~
「法勝寺電車」は、大正13年(1924)から昭和42年(1967)まで、米子市と南部町間の路線12.4㎞(支線を除く)をつないでいた私鉄の通称です。マッチ箱と呼ばれ親しまれた古典的車両であるフ50号客車は、イギリス・バーミンガムの工場製で、日本国内に現存する最古の2軸木製3等客車です。
現在の最大長は8m、自重7.54t、定員は50人です。この車両の原形は、座席が進行方向に直交する五つの区分席から構成される「区分席型」で、側面の大きめの窓が片側5か所の扉の痕跡を見せています。法勝寺電車に入線後にロングシート化するため、車内改造が施されました。
平成23年(2011)に「旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道車両」として南部町に保存されているデハ203号電動客車とともに鳥取県保護文化財に指定され、外堀通り沿いの元町パティオ広場で保存・公開されています。
駐車場 | なし |
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/16686.htm |
見学可否 | 可能(内部には入れません) |
旧小原家長屋門
~米子で唯一の武家屋敷の名残り~
新修米子市史
旧小原(おはら)家長屋門は米子市内で唯一現存している江戸時代の武家屋敷の建物です。長屋門とは家臣などを住まわせるため武家屋敷の全面に長屋を設け、その一部を門とした建物です。
小原家は鳥取藩の米子城預かりであった主席家老荒尾氏の家臣として、西町に屋敷を構えていましたが、長屋門は昭和28(1953)年に米子市に寄贈され、現在の米子城二の丸跡に移築保存されました。それ以降昭和59年(1984)までの約30年間、米子市立山陰歴史館として利用されました。
旧小原家長屋門は桁行20.38m、梁間4.03m、木造瓦葺平屋建て入母屋造りで、江戸時代中期頃の建築と推定されています。近世の城下町米子をしのばせる貴重な建造物であり、市指定有形文化財となっています。
駐車場 | 三の丸駐車場(約40台) |
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/33119.htm |
見学可否 | 外観のみ見学可能 (内部は非公開) |
加茂川橋水管橋
~市民の生命を支えた近代化遺産~
米子市の前身である米子町の水道事業は市制施行をにらんで、計画給水人口5万人、一日最大給水量3,678立方センチメートルの上水道事業を計画し、大正13年(1924)9月に着工し、大正15年(1926)3月に完成しました。河川をわたる水管橋は14か所あり、総延長126メートルに及びました。その後、耐震化整備や老朽管の更新が行なわれ、創設時の水管橋が残っているのは糀町の糀町橋水管橋(長さ8.3メートル)と西倉吉町の加茂川橋水管橋(長さ9.4メートル)の2か所のみです。
水道管は地下に埋設され、普段は見ることはできませんが、水管橋では地上に設置された銀色に輝く水道管が川をまたいでいます。今は送水が止められていますが、約90年もの長い間、市民の生命と文化的生活を支える水を送り続けてきました。米子の上水道の歴史を物語る貴重な近代化遺産として市有形文化財に指定されています。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/33154.htm |
見学可否 | 可能 |
糀町橋水管橋
~市民の生命を支えた近代化遺産~
米子市の前身である米子町の水道事業は市制施行をにらんで、計画給水人口5万人、一日最大給水量3,678立方センチメートルの上水道事業を計画し、大正13年(1924)9月に着工し、大正15年(1926)3月に完成しました。河川をわたる水管橋は14か所あり、総延長126メートルに及びました。その後、耐震化整備や老朽管の更新が行なわれ、創設時の水管橋が残っているのは糀町の糀町橋水管橋(長さ8.3メートル)と西倉吉町の加茂川橋水管橋(長さ9.4メートル)の2か所のみです。
水道管は地下に埋設され、普段は見ることはできませんが、水管橋では地上に設置された銀色に輝く水道管が川をまたいでいます。今は送水が止められていますが、約90年もの長い間、市民の生命と文化的生活を支える水を送り続けてきました。米子の上水道の歴史を物語る貴重な近代化遺産として市有形文化財に指定されています。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/33154.htm |
見学可否 | 可能 |
深浦神社
~疫病退散を願う祇園さん~
米子城深浦郭南の祇園町の由来は深浦神社の別名である祇園神社にちなみます。祇園神社は京都の八坂神社を本社とし、悪霊・疫病退散の守護神として信仰されました。京都の祇園祭同様に祭礼も華やかで、陰暦六月十五日に行われた祇園祭の際には神輿が市中を巡幸し、深浦に浮かべた船に提燈が飾られ、御旅所となる宇気神社まで船渡御し、再び中海に出て還御していました。城下の人々はそれにあわせて、船を漕ぎ出し音曲も賑やかに楽しんだことが『米子神社由来記』に書かれており、古来より米子の名物でした。深浦神社には立派な神輿が今も祭られています。
見学可否 | 可能 |
深浦郭
~水軍の根拠地~
米子城において、三の丸が城の表の防御拠点だとすれば、裏側にあたる中海に面した方には水軍の根拠地がありました。絵図にも港らしき施設が描かれています。米子城は中海から水を引き込んで内堀・外堀としていたので、外海から中海に入り、深浦で小型の船に乗り換えると、そのまま堀を進んで城下町に入ることができました。深浦郭には二段の石垣を巡らせて、御船手(水軍)を配置し、船頭屋敷、船小屋、番人小屋などの施設や隅櫓を設置して、中海側への監視の目を光らせて、防衛陣地としていました。さらには、造船も行なわれていて、慶長15年(1610)に城主となった加藤貞泰は御座船「駒手丸」をここで造り、愛媛県大洲市に転封の際には船で移動したと言われています。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/secure/23070/201511.pdf |
見学可否 | 可能 |
清洞寺跡
~巨大な五輪塔が並ぶ米子城主ゆかりの寺跡~
清洞寺岩は、かつては中海に浮かぶ亀島とよばれる小島でしたが、今は埋め立てられて湊山公園の中に大きな岩と松が残っています。
米子城の2代城主加藤貞泰が父光泰の菩提を弔うため、この島に曹渓院を建て、供養の五輪塔を作りました(向かって右)。元和3年(1617)池田由成が城主になると、由成は父母の供養のため、海禅寺を建立し2基の五輪塔を作りました。左が父由之のもので中央は母親のものです。海禅寺はその後、禅源寺と改められ、宝永7年(1710)博労町に移され了春寺となりました。亀島にはその後、荒尾家の家臣村河氏が江尾から清洞寺を移して菩提寺としたので、この島が清洞寺岩と呼ばれるようになりました。
現在は清洞寺跡として米子市史跡に指定されています。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/33096.htm |
見学可否 | 可能 |
内膳丸
~家老横田内膳が築いた重要な郭~
米子城は本丸のある湊山を中心に、北の丸山、東の飯山を出丸とする平山城です。 この丸山に築かれた郭は、中村一忠の家老 横田内膳が監督してつくった郭であることから「内膳丸」と呼ばれ、本丸の守りを強化する役目を果たしました。
一の段郭、二の段郭から構成され、二の段郭には隅櫓、蔵が置かれていました。この郭から本丸へ向けては登り石垣が設けられ、中海側からの防衛線となっていました。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/4435.htm |
見学可否 | 可能 |
妙興寺
~城下町を整備した横田内膳ゆかりの寺~
横田内膳正村詮は、中村一忠の家老で6千石を受けていました。村詮は一忠の父一氏の妹を妻にしたことから、一氏の死後は幼い一忠を後見し、政治の実権を握っていました。慶長6年(1601)に駿府から米子へ移封された一忠に従い、米子城と城下18町と呼ばれる町並みを完成させた功労者でしたが、一忠や側近のねたみを受け、慶長8年(1603)に城中で誅殺されました。この事態に横田一族は抵抗しましたが、敗れて一族は滅亡しました。横田騒動あるいは米子城騒動といわれています。村詮の墓は寺町の妙興寺にあり、「横田内膳墓碑及び遺品」は市有形文化財に指定されています。
URL | https://www.city.yonago.lg.jp/33154.htm |
見学可否 | 可能 |