まつえじょう 松江城
エリア:中国・四国
住所:690-0887 島根県松江市殿町1-5
松江城は、標高29mの亀田山にある平山城です。東西約400m、南北700mの敷地をもち、四重五階の現存天守は国宝にも指定されています。
松江城と松江城下は、堀尾吉晴と堀尾家臣団によって、五年をかけて計画的に建設されて誕生しました。松江城築城を推し進めた堀尾吉晴は、その多くの功績により「松江開府の祖」と呼ばれています。
かつて松江は一面の湿地帯が広がっており、堀尾吉晴は、排水のために堀を設けました。さらに、亀田山の北側と尾根で繋がっていた赤山の間を掘り崩して外堀と内堀を兼ねる大きな堀と道路、侍屋敷を造り、湿地帯も埋め立て、城下町を造成しました。松江城下に張り巡らされた堀は、城郭の堀の本来の防衛機能だけではなく、水運や排水の機能も持っていました。
「堀尾期松江城下町絵図」は1630年頃に作られた城下絵図ですが、現在の松江城・城下町におおよそ一致します。堀や道路など、江戸の造成時の面影を残す場所が数多く残っているのが、風情ある水の都松江の特徴です。
古地図とVRをご覧いただきながら、水の都松江の城下町散策をお楽しみください。
堀尾吉晴 | 堀尾吉晴は、1543年、尾張の国に生まれ、織田信長、豊臣秀吉や徳川家康に仕えました。吉晴とその子忠氏は関ケ原の合戦で家康側に付き、その戦功の恩賞として出雲・隠岐両国二四万石を拝領しました。出雲に入国した吉晴・忠氏父子は、従来の出雲の政治的・軍事的中心であった月山富田城(現在の安来市にある山城)にいったん入城します。しかし、物資輸送が陸上輸送のみであることと、城下町が広く取れないことや鉄砲に対する防御が弱いといった理由から、吉晴は新たな拠点づくりを模索しました。まずは城地とするにあたり、海上輸送もあり物流に便利な場所であること、城下が広く取れることから、松江の地を選びました。築城場所として目を付けた場所は、父吉晴は荒隈山、息子忠氏は亀田山(現在の松江城の地)でした。しかし、二人の意見は分かれたまま、忠氏は28歳の若さで亡くなってしまいます。吉晴は亡き息子の意思を継ぎ、忠氏が推した亀田山を築城拠点として、城と城下町の建設を推し進めていきました。 |
史跡・周辺情報
ぐるっと松江堀川めぐり
堀尾期松江城下町絵図 (1628-1633) 島根大学附属図書館蔵
築城時の姿を今も残す堀川を、船頭さんガイドにより小舟でめぐります。平成8年(1996)より遊覧船が就航しました。城下町の風情を堪能できます。
城下町造成初期の姿を伝える、松江最古の城下図である「堀尾期松江城下町絵図」には多くの堀が描かれています。ぐるっと松江堀川めぐりでは、江戸時代初期から残る、赤線で記した内堀・外堀を巡ります。
開館時間 | ・9:00~17:00(3月1日~6月30日・8月16日~10月10日) ・9:00~18:00(7月1日~8月15日) ・9:00~16:00(10月11日~2月末日) |
休み | 無休 |
駐車場 | 周辺駐車場あり |
URL | https://www.matsue-horikawameguri.jp/ |
北惣門(きたそうもん)橋
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
松江城の東北側の出入口となる北惣門の前の内堀にかかる橋です。城内側と堀外側の両側が土橋で、その間が木橋になります。木橋は明治中頃には石造りの橋に架け替えられ眼鏡橋と呼ばれていました。平成6年(1994)に、絵図や発掘調査の成果をもとに江戸時代の木橋として再現され、往時の姿を今に伝えています。
昭和28年(1953)頃、眼鏡橋と呼ばれていた頃の北惣門橋です。興雲閣建築の際に建材を運ぶため木橋から丈夫な石橋に付け替えられました。城内側と堀外側の両側が土橋で、その間を木橋から石橋、そして元の木橋へと造り替えています。川へ降りる石段と石垣が江戸時代から変わらずに残っています。
松江城下絵図に記載されている北惣門橋付近です。左(西)側が城郭、右(東)側が武家地です。
松江藩家老朝日家長屋・松江歴史館
雲州松江御城下之図 (1825-1831) 島根県立図書館蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
江戸時代に松江藩の家老をつとめた乙部(おとべ)家、朝日家の広大な屋敷があった場所で、朝日家の家来や使用人が住んだ2階建て瓦葺(かわらぶき)の長屋が残っていて、松江市指定文化財となっています。家老屋敷風の外観の松江歴史館は、松江城や松江藩の歴史・文化に関わる資料を展示する博物館で、天守を借景にした庭園を望む畳敷きの大広間では、松江を代表する名工が作る和菓子と抹茶をいただけます。
江戸時代の絵図から、「朝日」「乙部」の名前が読み取れます。この絵図では、武家地の屋敷割には上級家臣の名前のみ記入されています。このあたりには、家老など重臣の屋敷が建ち並んでいました。
開館時間 | ・8:30~18:30(4月~9月) ・8:30~17:00(10月~3月) |
休み | 毎月第3木曜日(祝日の場合は翌日) |
駐車場 | あり |
松江ホーランエンヤ伝承館
正式名称を「松江城山稲荷神社式年神幸祭(まつえじょうざんいなりじんじゃしきねんしんこうさい)」というホーランエンヤは、370年の歴史を有し、五穀豊穣を願い行われる10年に一度の船神事で、伝統を受け継ぐ五つの地区の櫂伝馬船(かいでんません)と約100隻の船が絢爛豪華な大船行列を繰り広げます。松江ホーランエンヤ伝承館では、この松江を代表する伝統神事を映像や模型などで紹介しています。
開館時間 | ・8:30~18:30(4月~9月) ・8:30~17:00(10月~3月) |
休み | 毎月第3木曜日(祝日の場合は翌日) |
駐車場 | あり |
丁字路(ていじろ)
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
城に向かう道の先が左右に分かれて、漢字の「丁」の形になっている場所を指します。城を守るため、城下町によく見られる道の形で、敵の直進を妨げ、勢いを弱めます。他にも、城に向かう道が鉤型(かぎがた)に折れ曲がって見通しがきかないように工夫した「鉤型路(かぎがたろ)」など、敵軍の侵攻を混乱させる工夫が城下町では随所に見られます。
城へ向かって直進する道が上部ほぼ中央に見えます。そのまま城内に侵入できないよう丁字路になっています。城だけでなく、町の設計も実戦に備えたものでした。(昭和40年(1965)頃撮影)
江戸時代の絵図からも、「丁」の字が読み取れます。
明々庵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
松江藩7代藩主松平治郷は、江戸時代を代表する大名茶人で、隠居後、不昧を号しました。松江が茶どころとして有名なのは不昧の功績によるものです。その不昧の指図により、殿町の有澤家に建てられた茶室が明々庵です。明治維新後は東京などに移されていましたが、昭和41年に不昧没後150年を記念して現在の赤山に移築され、当初の配置や構成を忠実に再現しました。また、山を切り崩して築城された松江城の姿もこの場所からよく見ることができます。
赤丸付近が、現在の明々庵の位置です。城下町の造成前は、城の北側の赤山と城がある山は尾根づたいに続いていました。
開館時間 | ・4月~ 9月 <観覧時間>8:30~18:30 <お抹茶時間>9:50~17:00 ・10 月~ 3 月 <観覧時間>8:30~17:00 <お抹茶時間>9:50~16:30 |
塩見縄手
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
城下町の風情豊かな塩見縄手は、武家屋敷や松並木が続き、市の「伝統美観保存区域」にも指定されています。「縄手」とは縄のように細く長い道のことで、昭和の初め頃までは現在の半分の道幅でした。通りに並ぶ武家屋敷に住んでいた中級武士・塩見小兵衛が、家老の身分にまで異例の昇進をしたことをたたえて塩見縄手と呼ぶようになったと伝わります。
昭和50年(1975)頃の塩見縄手の様子です。松の木の位置は現在と変わらず、堀川側の歩道が拡張されました。一部の道は、堀を埋め立てて2mほど広くなっています。
道路は黄色で描かれています。松江城北側の、堀川に沿った道路が塩見縄手です。
武家屋敷
松平期松江城下町絵図 (1850-1863) 島根大学附属図書館蔵(桑原文庫)
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
江戸時代当時の武家屋敷を改修保存した建物で、屋敷の中も見学することができます。現在は、明治期の図面を基に、約100年前の姿に復元されています。松江藩の中級から上級藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んでいた屋敷で、質実剛健な気風と暮らしぶりがうかがえます。松江市指定文化財
1850-1863年頃の絵図によると、屋敷は「氏家」と記されています。塩見縄手の名前の由来となった塩見小兵衛の屋敷でもありました。
開館時間 | ・8:30~18:30(4月~9月) ・8:30~17:00(10月~3月) |
小泉八雲旧居(ヘルン旧居)
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
中学校教師として赴任した小泉八雲が明治24年(1891)6月から同年11月まで、旧松江藩士だった根岸家から借り、藩士の娘セツ夫人と暮らした住いです。江戸時代には松江藩中級武士に与えられていた武家屋敷で、八雲が好んで眺めた庭園もそのまま残されています。国指定史跡。
開館時間 | ・8:30~18:30(4月~9月) ・8:30~17:00(10月~3月) |
小泉八雲記念館
小泉八雲の功績をたたえ建設されました。松江を世界に紹介した小泉八雲の自筆原稿や初版本などの遺愛品が展示されています。
開館時間 | ・4月~9月 8:30~18:30(受付は18:10まで) ・10月~3月 8:30~17:00(受付は16:40まで) |
休み | 無休 |
駐車場 | 専用駐車場はございませんので、最寄りの駐車場をご利用ください。(有料) |
稲荷(いなり)橋
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
稲荷橋は松江城の裏門(搦手虎口)にあたり、北惣門橋、千鳥橋と合わせ、築城当時に城を取り囲む内堀にかかっていた城へ至る3つの橋の1つです。平成10年(1998)に、築城当時と同じ形の木製風の橋に改修されました。
江戸時代の絵図にも堀にかかる橋が表されています。
筋違(すじかい)橋
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
敵の直進を妨げ、勢いを弱めるため、道筋からずらした位置に架けた橋です。この橋の北岸には、敵軍を迎え撃つ軍勢が集結する「勢溜(せいだまり)」と呼ばれる広場もありました。
昭和28年(1953)頃の木造の筋違橋の様子です。写真の手前側・北詰に勢溜がありました。古地図を見ると広場になっている様子が分かります。
外堀を隔てて上(北)側が屋敷地、下(南)側が町人地です。橋の両岸に設けられた勢溜が読み取れます。
千鳥(ちどり)橋[御廊下橋(ごろうかばし)]・御花畑
松江城絵図面 松江歴史館蔵
松江城下絵図 (1830-1844) 松江歴史館蔵
江戸時代には藩主の御殿があった三之丸〔現在は島根県庁の敷地〕から二之丸に通じる橋で、当時は「御廊下橋」と称され、屋根がかかった橋でした。御廊下橋は格式の高い橋で、藩主御殿など重要な場所に設置されることが多いです。 現在、県立図書館などがある一帯は御花畑があった場所です。御花畑には水田、池、庭園とともに御茶屋もあり、江戸後期には藩主の家族の屋敷も建てられていました。
江戸時代の絵図面には、橋に屋根が付いている様子が描かれています。
絵図に「御花畑」の記載があります。
御鷹部屋(おたかべや)
松江城下絵図 (1830-1844) 松江歴史館蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
旧県立博物館の南側一帯は、御鷹部屋と称された場所です。藩候直属の郭で、鳥獣などに関する「殺生方」が置かれ、鷹狩用の鷹などが飼育されていました。江戸末期、ここには「若殿様御殿」が建てられますが、明治になると、初代の島根県庁舎として利用されました。
絵図上に「御鷹部屋」の記載があります。
三之丸跡
松江城絵図面 松江歴史館蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
現在の島根県庁の敷地は、松江城の三之丸があった場所です。当時は藩政を行う政庁で、御広間や御書院とともに、御居間をはじめ藩主の住まいが建っていました。ちなみに、三之丸は松江城で唯一、方形の曲輪(くるわ)で、築城当初から独立した曲輪として造成されています。なお、三之丸を囲んでいた堀は北側と西側を残して埋められています。
絵図面に描かれた三之丸の様子。
赤枠で囲んだ部分が三之丸です。独立した曲輪であることが分かります。
大手前通り〔県道城山北公園線〕
「なつかしの松江城: 明治・大正・昭和の絵はがき集」編著/今岡 弘延、発行/山陰中央新報社
堀尾期松江城下町絵図 (1628-1633) 島根大学附属図書館蔵
松江城の大手前から東に延びる道路で、現在の県道城山北公園線〔通称大手前通り〕にあたります。平成18年(2006)から道路拡幅工事に伴う発掘調査が行われ、江戸時代の道幅が、武家地の母衣(ほろ)町では9m前後であるのに対し、城の東外堀にあたる現在の米子(よなご)川の東側沿いにあった町人地の米子町では4mに満たないことが判明しました。
大手前通り・母衣町付近の明治41年(1908)頃の様子です。現在は5車線の大通りですが、明治の頃までは、松江城(右手奥)を望む城下町の風情を残す通りでした。
城下町造成初期の姿を伝える、松江最古の城下図である「堀尾期松江城下町絵図」にもこの通りは描かれています。発掘調査により、この東西の大手前通りは松江の城下町が作られた江戸時代の初めに整備され、現代まで利用され続けていたことが分かりました。
鉤型路(かぎがたろ)
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
城下町によく見られる鉤型に曲がった城に向かう道で、城を攻める敵が勢い良く直進してくるのを妨げるのと、見通しを遮るために造られました。
大手前通りと交差する殿町の鍵型路を南側から俯瞰した昭和期の写真です。まっすぐに道を通さず、このように道を屈折させました。
赤丸で囲っている、鉤型に曲がった部分が鉤型路です。城郭に向かう道に設けられています。
カラコロ工房〔旧日本銀行松江支店〕
昭和13年(1938)に完成した日本銀行銀松江支店(設計:長野宇平治)の建物で、国の登録有形文化財に登録されています。一部修復し、リニューアルされ、今は製造・販売一体型の工芸館になっています。地下の金庫室にそのまま残る大扉も必見です。
大正から昭和初期頃に撮影された初代日本銀行松江支店の様子です。当時は木造二階建で、重い金庫を安定させるため、鉄筋コンクリート造の現在の建物に改築されました。
開館時間 | 9:30~18:30(飲食は11:00~22:00) |
休み | 12月30日-1月1日 |
駐車場 | 最寄りの駐車場をご利用ください。(有料) |
京橋・勢溜(せいだまり)
雲州松江御城下之図 (1825-1831) 島根県立図書館蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
京橋は大橋・天神橋とともに山陰道から松江城に至る主要な経路上にあり、南方の町人地と北方の武家地を結ぶ重要な橋です。橋の北側には、敵軍を迎え撃つため軍勢が集結する「勢溜」と呼ばれる広場も設けられていました。
江戸時代の絵図に「京橋」の記載があります。橋の北側が広く取られていることが分かります。この場所が勢溜です。
町屋〔米子(よなご)町〕
松平期松江城下町絵図 (1850-1863) 島根大学附属図書館蔵(桑原文庫)
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
城の周りに武家地、さらにその周りを商人や職人の町屋が囲み、武家の生活を支えていました。城の東外堀にあたる現在の米子川の東側沿いにあった米子町は築城当時は職人の町で、町の呼称は隣国の伯耆国(ほうきのくに)米子方面から職人が移り住んだことに由来するという伝承が残っています。
松平期松江城下町絵図で薄く色づけられた部分が町屋です。現在の米子川の東側沿いにある部分には「米子町」の記載があります。
普門院(ふもんいん)・普門院橋
雲州松江御城下之図 (1825-1831) 島根県立図書館蔵
城下町造成当初に開創された普門院は松平氏の祈願所となった天台宗の寺院です。元禄2年(1689)に現在地に移転しました。境内の茶室「観月庵」には、大名茶人として名高い不昧(ふまい)も松江城から舟で訪れたといいます。付近は市の伝統美観保存区域に指定され、寺の前にある普門院橋は明治の文豪・小泉八雲(こいずみやくも)の文学作品『知られぬ日本の面影』に「小豆とぎ橋」として登場します。
普門院から松江城を望む、明治末~大正の頃の写真で、景勝地として親しまれた様子が伝わります。城の手前に見える橋は北堀橋です。
雲州松江御城下之図に描かれた普門院です。樹木や御堂が絵画に詳細に描かれています。
松江大橋
松江城下絵図 (1830-1844) 松江歴史館蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
松江城下を南北に隔てる大橋川に架かる江戸時代で唯一の橋で、防衛的に最も重要な橋でした。また、大橋川は宍道湖と中海を結ぶ拠点に位置することから、船の発着場となった橋の南岸は交易や物資の集散地として賑わい、橋の北側の末次(すえつぐ)地区と南側の白潟(しらかた)地区は商人の町として発展しました。歴史的風情を伝える今の松江大橋は17代目で1937年に架け替えられたものです。
築城と城下町造成工事の初年度は、道路や橋の整備を行いました。難工事の末、1年をかけて末次と白潟を結ぶ木造の大橋が完成しました。1830年から1844年頃に描かれた松江城下絵図では、ひときわ大きく描かれた大橋が目立ちます。
二之丸
御城内絵図面
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
天守のある本丸の南側が二之丸で、東側の低い場所に玄関や御広間・下台所、西側の高い場所に御書院や月見櫓・上台所・風呂屋などが並んでいました。政務は大広間などがある下段で、御書院や月見櫓などがある上段は私的な接客に使われていました。平成13年に、発掘調査の成果や実測記録や古写真などの史料を元に、高石垣際に太鼓櫓・中櫓・南櫓が復元されています。
御城内絵図面は享保四~五年(1719~1720)頃に作成されました。建物の輪郭しか描かれていないものの、実測図を参考にしたとみられるため、建物配置と建物の大きさは正確に描写されています。二之丸には、東(下段)に藩主の居宅として使用された御書院、西(上段)に御広間や月見櫓が描かれています。
本丸南側の一段低い平地が二之丸です。
松江神社
「なつかしの松江城: 明治・大正・昭和の絵はがき集」編著/今岡 弘延、発行/山陰中央新報社
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
松江神社には、歴代の松江藩主や徳川家康が祀られています。明治10年に西川津村に松平直政を祀る楽山神社が創建され、明治31年(1898)に、東照宮がこの楽山神社に合祀されました。翌32年(1899)、現在地に移され、名称も松江神社と改められました。東照宮の歴史は古く、寛永5年(1628)に堀尾忠晴が勧請した徳川家康神霊社まで遡ります。建築形式は日光東照宮と同じで、この地域ではもっとも古い権現造です。
明治後期の絵葉書に残る松江神社で、現地に移された頃の様子です。石段の上に鳥居がありました。
興雲閣
明治36年 (1903)に松江市工芸品陳列所として作られた興雲閣は、明治天皇の行在所(あんざいしょ)にする目的もあって、装飾・彫刻も多用された華麗な擬洋風建築です。明治40年(1907)には、皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際して行在所に、その後は、迎賓所・展覧会場や松江郷土館として使用されていました。現在、1階には喫茶室・展示室があり、2階には大広間(展示室)があり、貴顕室(御座所・拝謁ノ間・御寝所)が復元されています。島根県指定文化財
明治40年(1907)に撮影された興雲閣です。皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際して行在所(御旅館)として使用されました。
開館時間 | ・4月~9月 8:30~18:30(受付は18:15まで) ・10月~3月 8:30~17:00(受付は16:45まで) |
松江城山稲荷神社(まつえじょうざんいなりじんじゃ)
松江城下絵図 (1848-1864) 乙部弌次家蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
天守の裏手の丘の上にある神社で、急な石段と赤い鳥居、小泉八雲(こいずみやくも)が「石造のキツネ千匹」と紹介した多数の狐(きつね)像があります。城山稲荷神社の御神霊を約10㎞離れた阿太加夜(あだかや)神社まで船でお運びし、一週間にわたり五穀豊穣を祈って還ってくる大規模な船神事「ホーランエンヤ」が10年に一度行われます。
赤く塗られた城郭の左上に鳥居の記号があります。江戸時代から天守の裏手に神社がありました。
椿谷
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
元々「後曲輪」と称された所で、城の西側を囲むように約4200本のヤブ椿が群生、日本3大ヤブ椿群の一つとされています。江戸時代から鬢付け油や刀の手入れ用として栽培されていましたが、藩の産業として松平治郷(不昧)も品種改良に力を入れていました。現在は梅の名所としても人々の目を楽しませています。v
松江城山の西側に、椿の自然林があります。
城内には椿以外も樫、竹、楓などがあり、それぞれ実戦を見据えた目的を持って植えられていました。例えば、樫は槍の柄、竹は弓の矢、楓は炭や薪用とされていました。
月照寺(げっしょうじ)
雲州松江御城下之図 (1825-1831) 島根県立図書館蔵
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
松江藩主を務めた松平家の菩提寺で、藩主各代の廟(びょう)が今に残る月照寺は、国の史跡に指定されています。 もともとは「洞雲寺」という禅宗の寺でしたが、徳川家康の孫である松平家初代藩主の直政が、生母月照院の霊牌を安置するために、浄土宗の「蒙光山月照寺」として改称復興したのが始まりです。
雲州松江御城下之図に描かれた月照寺。樹木や御堂が絵画に詳細に描かれているほか、「方丈(住職の居室)」の記載もあります。
開館時間 | ・9:00~17:00(4月~11月) ・9:30~16:30(12月~3月) |
菅田庵(かんでんあん)・有澤山荘(ありさわさんそう)
(公財)文化財建造物保存技術協会撮影
有澤山荘は松平直政が有澤家に下賜した山屋敷で、菅田山荘とも称されます。山荘内には、寛政4年(1792)頃、7代藩主松平治郷の指図によって茶室菅田庵(一畳台目中板入)が、引き続いて、不昧の弟衍親(雪川)の好みで向月亭(四畳半台目向切)とその前庭が営まれました。北には、御風呂屋(蒸し風呂)がやや離れて建ちますが、これも不昧の指図によるもので、日本を代表する茶室・庭園です。菅田庵及び向月亭(附御風呂屋)が重要文化財に、また山荘も国の史跡及び名勝「菅田庵」に指定されています。
南櫓
「なつかしの松江城: 明治・大正・昭和の絵はがき集」編著/今岡 弘延、発行/山陰中央新報社
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
松江城の東南角を守った二階建ての櫓が、図面を基に復元されています。1階は板張りの一間で、中央の階段から2階へ上ると、矢や鉄砲を放つための狭間があり、監視用の武者窓からは市街を望むことができます。
明治初期の松江城天守とニ之丸が映された写真で、石垣の上に、取り壊される前の南櫓と中櫓が建っています。塀は解体途中なのか一部軸組が露出している状態が見えており、復元資料となりました。明治8年(1875)に は各建物が解体撤去されていることが記録に残っているため、この古写真はそれ以前に撮影されたものとされています。
中櫓
松江城縄張図
松江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
武具が収納されていたため御具足蔵とも呼ばれました。板壁で仕切られた二つの部屋にはそれぞれ入り口があり、石垣に面した武者窓からは大手付近を監視、石垣から敵が上れないよう「石落とし」も設けられていました。
松江城縄張り図は全体に墨で三分 (9mm)の 方眼線が引いてあり、本丸、二之丸、二之丸下ノ段の曲輪平面図に建物平面・石垣寸法を記した割付図です。方眼一単位が建物の一間にあてられています。この方眼台紙の上に、建物は薄茶色の色紙を貼り付けて位置を示し、建物の名称、寸法を墨書で記入されています。中櫓の位置は3間×6間分の貼紙があり、桁行に墨書で6間と記されています。
太鼓櫓
天保十一子年 御本丸絵図面(写)松江歴史館蔵
江城下絵図 (1736-1748) 島根県立図書館蔵
設置された太鼓で時刻を知らせたり、招集をかけたりするための施設です。本瓦葺きの外観と太鼓が置かれた二間の内部、敵が近づくのを防ぐために石を落とす「石落とし」も復元されています。
昭和の大修理の際に模写された御本丸絵図面の二之丸近辺です。上の図の右下が太鼓櫓で、その西側が中櫓です。櫓間を繋ぐ塀が描かれています。