福山城
エリア:中国・四国
住所:720-0061 広島県福山市丸之内1丁目8
福山城は徳川幕府から西国鎮護の拠点として初代藩主水野勝成が中国地方初の譜代大名として 1619年(元和5年)、備後10万石の領主として入封し、1622年(元和8年)に完成した城です。 当時、中四国地方、九州地方は外様大名が多く治めており、 西日本の外様大名が集結すると江戸幕府を倒せるほどの力がありました。 福山城築城にはそれらの外様大名たちを牽制し、再び戦を起こさないようにする役割がありました。 そのため、10万石の水野勝成でしたが、50万~100万石級の城を築城しました。 以降、水野家5代、松平家1代、阿部家10代の歴代藩主を通じて、幕末まで福山藩の政治の中心となりました。
監修:三浦正幸
協賛:JFEスチール株式会社
史跡・周辺情報
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天下橋
福山城の外堀は、築城時入川で海とつながっていました。
入川両側の町人町を結ぶため、また、城下の東西を結ぶ幹線道路を整備するために、二つの橋が架けられました。上手の本橋と、下手の新橋です。
本橋は、現在の船町と元町の間の道路に南北に架かっていました。江戸時代中ごろ、享保期に記された水野家に関する記録『福山領分語伝記』には、伏見城や櫓のほか数々の建物が拝領、移築された(1622年ごろ)とあります。その中に「宝珠附之御橋四ツ拝領」と記され、そのうちの一つが「天下より御拝領之橋」として町民の住む城下に譲られたということで、通称天下橋と呼ばれました。橋の南側では1か月に6回開かれる六斎市が立ち、にぎわいを見せていました。
入川は、城下町商業の中心であり、米をはじめ、綿、い草、畳表など領内特産物の積出港としての機能を果たし、二つの橋は交通の要でした。
木綿橋
福山城の外堀は、築城時入川で海とつながっていました。
入川両側の町人町を結ぶため、また、城下の東西を結ぶ幹線道路を整備するために、二つの橋が架けられました。上手の本橋と、下手の新橋です。
新橋は、水野家2代勝俊の時代(1639~55年)に架橋されました。通称木綿橋の名で親しまれ、現在でもバス停の名称に使われています。通称の由来は、この橋の上で木綿市が繁盛したからと伝えられています。綿は、有利な換金作物だったので、水野時代、新田開発にあわせて盛んに植え付けが行われるようになりました。勝種の時代には、種を取った繰綿がおよそ4万俵余、福山からほかの地域へ移出されています。
入川は、城下町商業の中心であり、米をはじめ、綿、い草、畳表など領内特産物の積出港としての機能を果たし、二つの橋は交通の要でした。
築切
福山城の外堀は南東に伸びる運河(入川)で海に接続し、瀬戸内海から船で直接城内に入れる構造になっていました。しかし、干潮時には堀が干上がるなど弊害があったためか、堀と運河の接続部分は「築切」と呼ばれる土橋で分離され、堀の水は常時水で満たされる構造となりました。
水野勝成墓(賢忠寺)
三河に生まれた水野勝成は、元和5年(1619)56才で大和郡山6万石から備後10万石の領主として入封しました。
徳川家康とは従兄弟関係にあり、福山藩主になってからは、福山城の築城、新田開発、治水事業、神社仏閣の整備など積極的に領内の治世にあたりました。寛永16年(1639)家督を勝俊に譲り、慶安4年(1651)88才で死去、賢忠寺に葬られました。水野家の墓地は賢忠寺の北側にあり、勝成のほか父忠重、三代勝貞、四代勝種などの墓があります。勝成の墓石は、高さ5.1mの巨大な五輪塔です。
福山城三之丸 北御門外枡石塁跡
初代藩主水野勝成は短期間に、しかも10万石には過大ともいえる城郭を完成させました。しかし、幕府は北側の防御は自然地形を利用する簡略な方法をとらせました。そのため、北御門は城北ではなく、三之丸北東に設けられました。この遺跡は、北御門東側に接する外桝形の石垣で、城郭の配置や規模を知る上で大切な遺跡です。
福山城三之丸 西御門櫓台跡
内堀と外堀との間は三之丸とよばれ主として重臣の屋敷に当てられました。三之丸西側中央にある西御門の南側に内桝形、さらにその南側に出桝形が接しており、この櫓台跡は出桝形のもので東西11.5m、南北12.6mを測り、さらに北東側に幅4.6m、長さ7.2mの石垣がつきます。高架下に残るこの櫓台は、昭和46年(1971)新幹線工事で解体後、再び元の位置に復元されたものです。
旧内藤家長屋門
この長屋門は福山城の西外堀に面した場所にあった武家内藤家にあったものです。昭和51年(1976)現位置に解体移築されました。長屋門は中央に入口の引戸を設け、東側に二間、西側に土間と一間があります。なお、解体移築時に「弘化三年(1846)」の墨書が発見されました。
江戸時代末期の武家屋敷の面影をしのばせる建造物です。
水野勝俊墓域
勝俊は福山藩二代藩主で、備中国成羽に生まれました。元和6年備後入国後しばらく鞆に居住していましたが、寛永16年(1639)42才で福山藩主をゆずりうけました。父勝成にも劣らぬ武勇の士であったといわれ、勝成の事業を継承して領国経営の基礎である土木普請を着々と進めました。彼は日蓮宗に帰依し、妙政寺の大壇越になっており、承応4年(1655)58才で亡くなり、妙政寺に葬られました。墓は巨大な五輪塔で、墓前には7人の殉死者の墓が並んでいます。
明王院
鎌倉時代末期に再建された本堂と南北朝時代初期に建築された五重塔が、共に国宝に指定されている明王院。
本堂は折衷様式の建物として国内最古、五重塔は現存する全国の五重塔のうち5番目に古いものです。
2013年5月から毎月第3土曜日(午前10時~午後5時)に書院や庫裡(くり)などが一般公開されています。
誠之館高等学校 記念館
誠之館は、安政元年(1854)に藩主阿部正弘により藩校として、現在の霞町に創設しました。この建物は、その玄関として使われました。その後、学制の変化と共に三吉町、木之庄町へと大事に移築されてきました。藩校誠之館の学堂の玄関部分と、昭和8年(1933)に建てられた母屋からなっています。近世の雄大唐破風玄関と入母屋造の母屋が巧みに融合した構成で、和風の意匠と造形の連続性をよく示しています。
阿部正方墓域
福山藩阿部家第九代藩主であった阿部正方は、文久元年(1861)14歳で福山藩主となり、尊皇攘夷の論議が国内に沸騰している中、文久3年(1863)攘夷決行の命が下ると京都警護にあたり、国を二分する政争の渦中にあって宮中と幕府の間の調整にあたりました。
元治元年(1864)幕府の命により福山藩は譜代大名として二度にわたる長州藩追討に向かい、慶応3年(1867)11月戊辰戦争の前哨戦として長州軍が福山城に迫ろうとした時、正方は病が篤くなり福山城内で死去しました。騒動の最中であったため、遺体は一時小丸山の麓に仮埋葬され、明治3年(1870)に現在地(通称小坂山)へ正式に埋葬されました。
福山藩主として十代続いた阿部家は、幕府の重役として代々江戸詰めが多かったことから他の藩主の墓は全て江戸にありますが、幕末の混乱の中で亡くなった正方の墓は、唯一福山藩領内に造営されました。墓は円筒形の神式墓で側面に亀甲形の切石を精巧に貼り付け、上部を玉石で覆って土饅頭形にした特異な形態をしています。
観音寺本堂
福山城の築城に際して、艮(東北の方向)の鬼門を守るために建立されたと推定される寺院で、慶安4年(1651)の棟札があります。随所に和様、唐様、天竺様の手法が用いられた折衷様式の建築です。装飾手法は桃山時代の建築装飾の流れを引いています。県内に現存する近世唯一の本格的な密教寺院の本堂として、また折衷様式の変遷を考える上で貴重な建物です。
物見櫓跡
外堀に面し三之丸御屋形(藩主屋敷)完成後は、これに付随する見晴台として用いられました。廃城後、改変を受けながらも残っていましたが、福山空襲により焼失し、現在は基部の石垣が一部残るのみとなっています。
福山城博物館
福山城の大規模改修に伴い、福山城博物館も1966年に福山城が再建されて以来、初となる大規模リニューアルを実施。福山城と福山藩の歴史を学べる展示内容に特化し、一番槍レース体験や火縄銃体験などの体験型コンテンツや壁面を活用した大型3面シアターなどの最新のデジタル技術で、よりエンターテインメント性の高い展示へと生まれ変わりました。
館内を流れる映像では、福山城築城400年応援サポーターの落語家春風亭昇太さんや、声優福山潤さんなどがナレーターを務めています。
URL | https://fukuyamajo.jp/ |
福寿会館
「鰹節王」といわれた安部和助氏が別荘として昭和初期に建築しました。
福山城公園の北東に位置し、本館は檜皮葺唐破風の表玄関を持つ和風で、木造2階建ての洋館が付随している。屋根は瓦葺き急勾配の切妻。ベネチアルネサンス風の疑似窓装飾や柱の装飾などが特徴的です。
本館、洋館のほかに、西茶室、南茶室、西蔵、東蔵があり、すべて国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
庭園越しに城を眺望できるように設計されており、目前にそびえる天守の勇壮な姿は絶景です。
URL | https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuju/ |
ふくやま文学館
福山市名誉市民である作家・井伏鱒二をはじめ、福山市ゆかりの文学者の足跡をたどり顕彰する施設で、1999年に開館しました。
それぞれの業績、略歴、作品などを資料や映像で紹介しています。
建物の外観は、井伏鱒二の郷里である加茂地方の民家をイメージしてデザインされました。また、井伏鱒二の書斎を再現したコーナーでは実際の愛用品も展示され、多趣味として知られる井伏鱒二の日常を垣間見ることができます。
URL | https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/bungakukan/ |
ふくやま美術館
緑豊かな福山城公園内に、「見る」「創る」「学ぶ」「ふれあう」の機能を備えた住民参加型の美術館として1988年に開館しました。
20世紀ヨーロッパの美術、郷土ゆかりの作家や瀬戸内海圏関連の作家の作品、日本の近代・現代美術を展示しています。特に、岸田劉生の『橋』(1906年)から『麗子十六歳之像』(1929年)までの5点の油彩画は彼の画業の変遷をたどることのできる一連のコレクションとして注目されています。
美術館正面に立つ「愛のアーチ」は、福山出身の芸術家・高橋秀氏が制作したモニュメントで、美術館のシンボルとしてロゴマークにも使われています。この赤色と公園の木々の緑が共鳴し合い、訪れた人々を明るく迎えてくれます。
URL | https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuyama-museum/ |
ふくやま書道美術館
ふくやま書道美術館は、福山市出身の書家、栗原蘆水氏から、長年収集された中国明・清時代の書画・文房至宝などの貴重なコレクションを寄贈いただき、また同郷の友人で大阪在住の金光富男氏からは、改修経費の寄付をいただいて2003年8月に開館しました。
所蔵品は、栗原コレクションの日本・中国の書画、墨・硯・筆・印材・筆筒・水滴などの文房至宝に加え、福山市ゆかりの書家、桑田笹舟・谷邊橘南・宮本竹逕・桑田三舟・栗原蘆水の遺墨等多彩であり、これらによる展覧会を開催しています。落ち着いた雰囲気の中で、書画・文房清玩との対話を楽しんでいただければと願っております。
URL | https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuyama-syodo/ |
人権平和資料館
人権・平和資料を展示し、同和問題解決をはじめとする人権の確立と、恒久平和の実現を考える資料館として1994年に開館しました。
「平和部門」では福山空襲の実相と戦時下のくらしを、「人権部門」では部落の歴史と解放のあゆみを常設展示しています。
URL | https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/jinkenheiwa/ |
県立歴史博物館
芦田川の川底に埋もれた中世の町として知られる草戸千軒町遺跡を中心に、瀬戸内地域の民衆生活と文化に視点を当てた博物館として、1989年に開館しました。
草戸千軒町遺跡の発掘調査による出土品、瀬戸内の民衆生活の歴史・文化をテーマに資料を収集し展示しています。
URL | https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekishih/ |
鉄御門
伏見城からの移築とされる櫓門で,二階に武具を収めていました。 柱・扉・鴨居とも鉄板で覆っていたのでこの名前が付けられたとされています。