肥前名護屋城

エリア:九州・沖縄
住所:〒847-0401 佐賀県東松浦郡鎮西町名護屋
肥前名護屋城は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、その出兵拠点として築かれた城です。
文禄元年(1592)の開戦から、秀吉の死で諸大名が撤退するまでの7年の間、大陸侵攻の拠点となりました。
黒田官兵衛の設計のもと、加藤清正、黒田長政、小西行長ら、九州の諸大名が築城を命じられ、大名たちに工事を分担して競い合わせることで、わずか4~5ヶ月の間に、大坂城に次ぐ巨大な城を完成させたといわれています。
城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇り、周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。
設計監修:西和夫・アルセッド建築研究所

史跡・周辺情報
佐賀県立名護屋城博物館

佐賀県立名護屋城博物館は、特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業と、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)及び日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として、平成5年(1993)10月に開館。
電話 | 0955-82-4905 |
料金 | 無料 (※特別企画展期間中は有料、ただし有料期間中でも、高校生以下・障害者手帳をお持ちの方は無料) |
開館時間 | 9時~17時 |
休み | 月曜日(※月曜日が祝休日の場合はその翌平日) 年末12月29日~31日(※1月1日~1月3日は臨時開館) |
駐車場 | 有り |
URL | http://saga-museum.jp/nagoya/ |
増田長盛 陣跡

豊臣政権五奉行の1人で、大和郡山城20万石の藩主。
文禄2年(1593)に明国使節団が名護屋に到着した際には饗応役となった。
増田長盛陣跡は、北条氏盛陣跡の丘陵地西側に位置している。高さ1~1.5mの石塁によって囲まれ、海岸付近に小規模な曲輪が密集するのがこの陣跡の特徴。
駐車場 | あり |
北条氏盛 陣跡

後北条氏3代目氏康の4男、氏規の子。
豊臣秀吉の小田原征伐の際、父氏規と共に韮山城を守り、文禄・慶長の役には、軍勢200人を率いで名護屋に参陣。
北条氏盛陣跡は、丘陵地の東側に位置し、増田長盛陣跡に隣接している。大名の陣跡では最北端にあり、名護屋城から直線距離で約3km。最も高い所は海抜37.8m、陣跡には主郭や曲輪の一部が残っている。
生駒親正 陣跡

秀吉の国内統一戦に歴戦。讃岐一国17万石の藩主。
生駒親正陣跡は、北条氏盛陣跡と佐竹義宣陣跡の中間に位置し、現在は公園の一部となっている。丘陵全域が陣跡と推定されおり、主郭の北側や東側には曲折する塁が認められ裏栗石がむき出しの状態であることから、かつては石塁で囲まれていたと推定されている。
駐車場 | あり |
島津義弘 陣跡

薩摩島津氏の18代目。薩摩・大隅・日向56万石の藩主。慶長の役では泗川の戦いなどで勇名をはせる。
島津義弘陣跡は、半島状に突出した独立丘陵のほぼ全域に位置し、波戸地区では最大規模の陣跡。最も高いところは海抜約21m、この陣跡は主郭を中心に大小の曲輪が密集し、石垣や石塁などの遺構が良好に残っており、内部構造がよくわかるのが特徴。
駐車場 | あり |
九鬼嘉隆 陣跡

九鬼嘉隆は、天正6年(1578)織田信長の石山本願寺攻撃に参加、木津川口で毛利氏の水軍を破り、信長の信任を得る。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、文禄の役では1,500人の兵を率いて参戦、開戦時には船奉行の一人として対馬に渡った。
九鬼嘉隆陣跡は、周囲を谷地形が取り巻く独立丘陵上に位置し、現在は、国道によって陣跡が分断され、耕地化が進んでいるため、形状の詳細は不明。しかし、陣跡北西部と東部に帯曲輪と考えられる箇所があり、九鬼陣内に続く古道と推定される箇所も確認できる。また、陣跡内の旗竿石は当該期に置かれた場所のままである可能性が高い。
豊臣秀保 陣跡

豊臣秀保は、秀吉の甥にあたる。天正20年(1592)には従三位権中納言となり、「大和中納言」と呼ばれるようになった。文禄・慶長の役に際しては、後見人である藤堂高虎とともに、一万人を率いて名護屋に在陣していた。
豊臣秀保陣跡は、名護屋城の南西にある串浦に面する標高約68mの地元で「鉢畠(はちばたけ)」と呼ばれる丘陵上に位置する。丘陵の南側には名護屋城から串浦を結ぶ「串道(くしみち)」が通り、要衝を占めていたことが分かる。
駐車場 | あり(堀秀治陣跡の駐車場を利用) |
堀秀治 陣跡

堀秀治は越前北の庄(現在の福井県福井市)を治める約18万石の大名で、文禄・慶長の役には約6,000人の兵を率いて16歳の若さで参陣、しかし秀治自身は渡海せず、戦いの間この陣で生活していた。
堀秀治陣跡は、130以上ある名護屋城周辺の陣跡の中で、唯一の全体が調査・整備された陣跡。約10万平方メートルの丘陵全域に広がっており、丘陵頂部の本曲輪を中心に、北曲輪・北西曲輪・西曲輪・東曲輪などが丘陵に配置されている。
駐車場 | あり(堀秀治陣跡の駐車場を利用) |
富田信則 陣跡(天神社)

富田信則は、織田信長の家臣で、本能寺の変の後に豊臣秀吉の家臣となる。小牧・長久手の戦いでは、織田信雄との講和に奔走する。
富田信則陣跡は、現在の天神社一帯にあり、耕地化や宅地化などにより、著しく変わっている部分もあるが、土塁・石塁・曲輪状の遺構が多く残されている。天神社の鳥居近くには「旗竿石」(手水石)が残っている。
徳川家康 陣跡

豊臣政権五大老の一人。江戸を本拠とした250万石の大大名。1万5千の兵力を率いて名護屋に参陣。名護屋城や諸大名の陣所を記した絵図(配陣図)によると、家康はこの本陣の他に海を隔てた東側対岸に別陣も構えていた。
木下延俊 陣跡

木下延俊は、秀吉の正室(おね)の兄、木下家定の子で、秀吉から播磨国三木郡に2万石を与えられていた。名護屋には250人の兵を連れて参陣しているが、当時はまだ十代と若く秀吉にも可愛がられたため、名護屋城に隣接する標高82mの通称「法光寺山」に陣屋が置かれていた。
駐車場 | 名護屋城跡駐車場を利用 |
前田利家 陣跡

加賀100万石の基礎を築いた前田利家は、豊臣秀吉と同じく尾張国愛知郡の出身。はじめ織田信長に仕えたが、信長亡き後は秀吉の片腕として加賀・越中・能登三国の太守となるなど、豊臣政権での重臣としての地位を確立した。文禄・慶長の役では8,000の兵を率いて参陣し、秀吉が一時名護屋から大坂に戻った際には、徳川家康とともにその留守を預かるなど、秀吉から厚い信頼を得ていた。
前田利家陣跡の規模や立派さは、陣屋の中でも群を抜いており、石垣に矢で割った割石を多用する先進的な造りであった。利家は徳川家康と共に、文禄2年(1593)に名護屋を訪れた明の使節の接待役を務めており、豊臣政権の外交施設としての格式の高さも現れているものと考えられる。
駐車場 | あり |
加藤嘉明 陣跡

加藤嘉明は、賤ケ岳の戦いに七本槍の一員として奮戦、また水軍を指揮した水軍の将としても知られている。文禄の役では、舟奉行として壱岐に渡り、警固にあたったが、海戦では李瞬臣の率いる朝鮮水軍のために苦戦している。
加藤嘉明陣跡は、曲輪頂部からの眺望がよく、名護屋湾の船の出入りやまた、波戸岬方面が見渡せる要衝に位置しており、船の監視所的役割があったと考えられる。
駐車場 | あり |
呼子の朝市

松浦町商店街の朝市通りには元日を除いて毎日朝市が立つ。昭和10年(1935)頃現在の形で定着したもので、日本三大朝市のひとつに数えられ、平日では約50店、日祝日には約70店の露店に取れたての魚介類・野菜・果物などが並ぶ。
電話 | 0955-82-3426 |
料金 | 無料 |
開館時間 | 7:30~12:00 |
休み | 元旦 |
URL | http://www.karatsu-kankou.jp/kanko_list2.html |
波戸岬

唐津市の一部、東松浦半島の最北端に位置する「波戸岬」。目の前に玄界灘が広がり、特に夕日が沈む海の様子は、オレンジ色に染まった海と島影が見事なコントラストで息を呑む美しさである。日本海側では唯一の海中展望塔は、岬の陸地から86mの桟橋でつながれ、海中展望室では水深7mの自然のままの海の中を見られる。波戸岬近海は良質な魚介の漁場となっていて、なかでも「さざえのつぼ焼き」は波戸岬の名物。
電話 | 0955-74-3355 |
駐車場 | あり |
URL | http://karatsu-kankou.jp |
茶苑「海月」

茶苑「海月」は、名護屋城跡の一角に建てられた茶室で、苑内は日本庭園、広間などのある茶屋棟、茶室棟から成り、茶屋棟では抹茶がいただける。
電話 | 0955824384 |
料金 | 大人 500円 高校生 450円 中学生以下 300円 |
開館時間 | 9:00 ~ 17:00(ただし入苑は午後4時30分まで) |
休み | 第二・第四 水曜日、12月29日~1月2日 |
道の駅「桃山天下市」

道の駅桃山天下市は、呼子より3キロの国道204号沿いにあり、特別史跡名護屋城跡の玄関口に位置している。駅では鎮西町でとれた新鮮な農産物、水産物等を豊富に揃え、食事処ではイカ活造定食等の活魚料理が楽しめる。
電話 | 0955511051 |
料金 | 無料 |
開館時間 | 店舗・売店 9:00~18:00(農産直売所は6:00~18:00) /レストラン 11:00~18:00 |
休み | 1/1~1/3(店舗によって異なる) |
駐車場 | あり |
URL | http://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=171 |
大谷吉継 陣跡

石田三成、増田長盛等とともに、豊臣政権の重要な役割を担った大谷吉継は、秀吉による九州征伐の際には兵站奉行として、食糧や武器・弾薬の調達等、その手腕を発揮し越前国敦賀5万石を領した。
天正二十年(1592)の「唐入」(文禄の役)の際には、肥前名護屋において石田三成とともに船奉行として海上輸送に関する船舶運用の任務にあたる。同年6月には、朝鮮奉行として渡海し、朝鮮部隊の監察や、明国との和平交渉を進めた。1,200の兵を率いて肥前名護屋に在陣した吉継であるが、その陣の所在については謎が多く、名護屋浦の入江から奥に入った西岸の「ウラウチ」、これに隣接する「魚見崎」、そして波戸港南側の河岸段丘上の「鳥ノ巣」の3箇所が大谷吉継陣に比定されている。肥前名護屋城図屏風に描かれた「魚見崎」の大谷吉継陣は、丘陵頂部一帯に主郭部が見られ、この中に描かれた御殿と思われる建物や、松らしき木々は庭園を想像させる。
石田三成 陣跡

豊臣秀吉の五奉行のひとりとして知られる石田三成は、幼少の頃から当時長浜城主であった秀吉に仕え、文官としての能力を発揮し、文禄四年(1595)には近江国佐和山で19万石を領した。秀吉による九州征伐の際には、兵站奉行に任じられ、食糧や武器・弾薬などの調達・管理を任された。天正二十年(1592)の「唐入」(文禄の役)の際には、2000の兵を率いて肥前名護屋に参陣し、大谷吉継らとともに船奉行となり、渡海部隊の輸送業務を担った。同年6月には、増田長盛や大谷吉継とともに渡海し、朝鮮部隊の監察のほか、明軍との和平交渉を進めている。
肥前名護屋の石田三成陣は、名護屋浦最奥部の野元に比定されているが、佐竹義宣家臣の平塚滝俊の書状や一部の配陣図では、北部の波戸周辺にも位置していた可能性がある。野元は、名護屋城大手門に通じる太閤道の「大手口」と「三の城戸」の間に位置し、肥前名護屋城の防衛上の要衝であり、豊臣政権における三成の存在の大きさが、配陣状況から推察できる。
真田昌幸 陣跡(サナダサエモンサマ)

真田昌幸は、真田幸綱(幸隆)の三男で武田信玄の近習として仕え、武田親類衆の武藤氏を継ぐが、天正三年(1575)の長篠の戦いで兄信綱・昌輝が戦死したため昌幸が真田氏の家督を相続する。天正十年(1582)、武田氏の滅亡により苦境に立たされるが、織田・徳川・北条・上杉氏の間を巧みに立ち廻り、天正十三年(1585)頃、豊臣秀吉に臣従し、次男信繁(幸村)を秀吉のもとへ出仕させている。天正十八年(1590)の小田原攻めによる北条氏滅亡後に旧領の沼田領を回復し、信濃国上田(約4万石)・上野国沼田(約3万石)を領す。天正二十年(1592)の「唐入」(文禄の役)では700人の軍勢を率いて、嫡男信幸と共に名護屋に在陣している。また、信繁(幸村)も秀吉の「御馬廻組」として名護屋に在陣している。
真田氏の陣跡としては、現在6ヶ所程度が考えられているが、その内名護屋城の北東約500mに位置する中尾地区の陣跡は、有力な真田昌幸の陣跡と考えられている。陣跡には、大きな石(「鏡石」)を用いた石垣や土塁等で区画された曲輪が見られる。また、佐竹氏の家臣平塚滝俊の書状には、「真田殿座敷」を見物した記事がある。
伝真田信繁(幸村)墓
中尾地区の真田昌幸陣には、地元で「サエモンサマ」と呼ばれる真田信繁(幸村)の墓と伝えられている石碑があり、地元の人々によって大切に祀られている。なお、信繁は、秀吉の馬廻として仕えていたことから、名護屋城近くの秀吉直属の家臣団が居住していたと考えられる、現在「殿町」と呼ばれている地区に居住していた可能性がある。