高岡御旅屋

エリア:北陸・東海
住所:富山県高岡市御旅屋町
「御旅屋(おたや)」とは加賀藩特有の用語で、藩主の参勤交代や鷹狩りの際等の休憩・宿泊施設である。藩内(富山・石川県)の主に北陸街道沿いに最大12ヶ所あり、多くは1670年代に創建された。しかし藩は維持できず、1730年代頃に廃止された(高岡御旅屋は1711年に廃止)。
高岡御旅屋の創建年代は諸説あり不明。定説は高岡廃城(1615年)後の元和期(1615~24)とするが、根拠は後世の記録である。高岡市立博物館蔵「飯田家文書」から、遅くとも1623年以前には泉水(庭園)を備えた御旅屋の存在が確認される。
御旅屋は高岡台地上にあり、城大手口から高岡関野神社にいたる城の前線基地の中心的軍事拠点でもあった。各種の絵図によると、面積は約10,800坪(100m×300m)で、周囲は両側を土塁で挟まれた水堀に囲まれている。2区画あり、参勤交代道(現御旅屋通り)沿いに正門を備えた「御屋敷」部分(約100m四方)と、御堀・中島等がある「庭園」部分とに分かれる。屋敷は伏見の豊臣秀次御殿の良材を転用していた高岡城本丸御殿の廃城(1615年)後に、さらにその古材を使用したとも伝わる。
高岡御旅屋は加賀5代当主までは年1~2回程活用したが、老朽化が進み使われていなかった。1711年に御馬出町(おんまだしまち)の天野屋が御本陣に指定され、その役割を終えた。その後は「御虫乾所」や「御武具御土蔵」とされたが、1870年に払い下げとなった。
古地図について | 掲載している古地図は、4種類の古地図を合成し、現在の地形に変形させて掲載しています。 ・高岡中古之図(高岡市立博物館蔵) ・御旅屋御馬場御林等絵図(高岡市立中央図書館蔵) ・高岡御旅屋図(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵) ・越中高岡古城図「大図」(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵) |
監修:三浦正幸・仁ヶ竹亮介

史跡・周辺情報
桜馬場跡

高岡名勝絵葉書「桜馬場の春色」(1918~32年頃) 高岡市立博物館蔵

金子家文書(うば桜34,5本の献上を指示) 砺波市教育委員会提供

桜馬場は1609年、前田利長の高岡築城に伴い造成された馬場。長さ500m、幅17mで、周囲は土塁(どるい)に囲まれる。台地上の城の前線基地の東南側に造成され、防衛の役割ももつ。
伝承では1610年に砺波(となみ)郡太田村(現砺波市)宗右衛門が利長に山桜を献上し馬場の土塁に植えたとするが、1627~29年頃の金子家文書に「山桜ではなく姥桜(うばざくら/江戸彼岸桜)34、5本程を高岡へ来られる殿様(3代利常)に献上せよ」とある。17世紀後半、藩は桜の多くが枯れたので吉野(奈良県)の桜を移植したと伝え、数千本あったといわれる桜の維持管理につとめた。明治以降も周囲に歓楽街や駅なども建ち並び、桜馬場は長らく北陸を代表する桜の名所であった。
1870年、桜馬場は払い下げとなるが、後に市長となる鳥山敬二郎が自社で買い取り、90年市に寄付した。1902年、公園指定。のち、高岡古城公園まで桜並木が延長された。1939年、この桜は「越の彼岸桜」として県の天然記念物に指定されたが、戦後、増加した自動車により樹勢が衰え、1955年公園を廃して道路が拡幅された。
のち加茂善治らはその桜を古城公園に移植。近年、この内から固有種「タカオカコシノヒガン」、及び「コシノカモザクラ」が発見された。
公益財団法人高岡地域地場産業センター ZIBA(ジーバ)

高岡市提供

高岡市提供

高岡市提供
富山県内の伝統的工芸品をはじめ地場産業振興のため、昭和58年(1983年)に県及び富山県西部地域の市町村と、県内の産業界によって設立されました。高岡銅器・高岡漆器・井波彫刻・越中和紙・庄川挽物木地・越中福岡の菅笠の6つの地場産業を対象としています。
2020年10月には高岡市の中心市街地の活性化を目的に御旅屋セリオ2階へ愛称 ZIBA(ジーバ)となり移転リニューアルしました。
ZIBA(ジーバ)の命名の理由
1 これまでの地場産センターの地場(じば)の音を残す
2 人々が磁力でひきつけられる磁場の役割をもつ
3 ペルシア語の「美しい」という意味合い
ペルシアは世界史上、最も豊かな芸術遺産を遺す地域として評価され、奈良時代には、ペルシアからシルクロードを通じて多くの工芸品が日本に渡ってきました。そして時を経て、今度は富山県の工芸が、その美しさと技術を世界に評価してもらいたいという願いが込められています。
施設フロア紹介
・ZIBAショップ…富山の伝統工芸品を一堂に販売しています。
・ものづくり工房(鋳物)…鋳型をつくってスズを流しいれる体験ができます。
・ものづくり工房(漆器)…蒔絵やらでんなどで模様をつける体験ができます。
・産業資料館…伝統的工芸品について紹介しています。
・ST@R ZIBA…静止画や動画などが撮影できるスタジオです。
(営業時間等、詳しくは下記ホームページをご覧ください。)
URL | http://www.takaokajibasan.or.jp |
御旅屋通り商店街


昭和54(1979)年頃高岡開町370年市制施行90周年記念写真集より 高岡市提供

昭和30年(1955)代 高岡開町370年市制施行90周年記念写真集より 高岡市提供
御旅屋通り商店街は、高岡駅より徒歩5分程度の中心市街地に位置しており、高岡市を代表する商店街の一つとして長年市民からも親しまれています。また、市唯一の全天候型全蓋アーケードを有しており、市民が集うイベント会場としても活用されています。
その歴史は大正期頃にさかのぼります。江戸初期の開町以来、高岡の商業は「山町筋(やまちょうすじ)」の問屋業を中心としており、小売業はその周辺に形成されていました。明治末期に坂下町に「勧工場(かんこうば)」という百貨店の前身となる店が現れ、商店街ができはじめます。大正末期頃、御旅屋通りに3階建ての小百貨店「丸屋」が開店すると、昭和初期から賑わいをみせた末広町と共に発展します。昭和12年(1937)には鉄筋コンクリート5階建ての「丸越百貨店」(同18年に大和となる)が開店すると、御旅屋通りは富山県西部を代表する商店街へと発展していきました。
(商店街の店舗情報など、詳しくは下記ホームページをご覧ください。)
URL | http://otayastreet.com/ |
高岡関野神社

高岡市提供

絵葉書「高岡市県社関野神社(棚田書房発行)」(1918~32年頃) 高岡市立博物館蔵
高岡台地西隅の高台にあるので、「高(たか)の宮」の通称がある。祭神は伊弉冉命(いざなみのみこと)・事解男命(ことさかおのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)・稲荷大神(いなりおおかみ)・前田利長命。1919年に関野神社(熊野社)と高岡神社(稲荷)が合社。同じ境内に鎮座する加久弥(かくみ)神社(神明社)と共に〈関野三社〉と総称される。
関野神社は1604年、射水(いみず)郡水戸田(みとだ)村(現射水市大門地区)の熊野神社を上関(かみぜき)村〔現高岡市神主町(かんぬしまち)〕に勧請(かんじょう/分霊)し、熊野宮と称した。1806年、現在地に移り、1840年、関野神社と改めた。高岡神社は前田利長が高岡築城の翌1610年に、城内に建立した稲荷社が起源。利長の没後、その神霊を合祀して上関村に移り、1806年現在地に移転。1878年、高岡神社と改称。加久弥神社は古くは上関村に鎮座していた延喜式内社(えんぎしきないしゃ)。かつては神明宮と呼ばれていた。大伴家持(やかもち)が越中国司として下向の際、神鏡を奉納したと伝える。春祭りの5月1日には「高岡御車山祭(みくるまやままつり)」(国指定重要有形無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産)が行われる。
町奉行御貸屋(まちぶぎょうおかしや)跡

片原町交差点(御貸屋跡)2013年7月撮影 高岡市立博物館提供

両御貸屋分間絵図(1870年) 高岡市立中央図書館蔵

御貸屋(御貸家)は役人が藩から貸与される官舎のこと。高岡町奉行の御貸屋は1677年に創建されたと伝わる。町奉行は2人の月番制で、御貸屋も東西の2棟があった(加賀藩内で金沢以外の2人制は高岡のみ)。場所は現片原町(かたはらまち)交差点南東側で、東棟跡には現在北陸銀行高岡支店があり、その南西隣の西棟は末広町通りである。「両御貸屋分間図絵」(1870年)によると、正門は庄方(しょうかた)用水に向いている。それぞれ敷地と屋敷の面積は、東棟665.6坪・約72坪、西棟556.6坪・56坪である。2棟の間は3.6mの小路が通る。
高岡町奉行は1609年の開町当初は小塚淡路(こづかあわじ/禄高(ろくだか)9000石)・有賀左京(ありがさきょう/700石)とされる。その後は90名前後の名が残る。1652年に町会所(まちかいしょ)ができるまでは砺波射水郡(となみいみずこおり)奉行と兼任であった。禄高は小塚を除き200~2000石(平均670石)。任期も2ヶ月~21年もの開きがある。
町奉行は当番月の7日間だけ、午前10時に町会所内の町奉行所に出勤し、用済み後に退庁した。奉行の下には町下代(まちげだい)などの役人がおり、21名の町付足軽(まちつきあしがる)は、書記や御旅屋(おたや)・古御城(ふるおしろ)・瑞龍寺の番人や町内の警らなどを担当した。
高岡大仏

高岡市提供

高岡大仏御面像竣工紀念鋳造員(1911年) 高岡市立博物館提供
奈良・鎌倉の大仏と共に「日本三大仏」と称する。銅造阿弥陀如来坐像(どうぞうあみだにょらいざぞう/市文)。総高15.85m、座高7.43m(奈良大仏の約半分)、総重量65t。材料・作業等全て市民手造りの大仏である。台座は回廊で、中には地獄極楽図等の仏画や焼失翌年の1901年に寄進された木造仏頭などがある。
承久の乱を避けた摂津(せっつ/兵庫県)多田(ただ)の源義勝が、丈六(じょうろく/約4.8m)の木造大仏を二上(ふたがみ)山麓(高岡市)に建立したのが始まりとされる。1609年、前田利長が高岡開町の際、現在地に移したという。坂下町極楽寺の等誉(とうよ)と弟子良歓(りょうかん)は荒廃した大仏再建に奔走、1746年に3丈2尺(約9.7m)の金色木造の大仏が完成した。
しかし1821年の大火で類焼。同寺譲誉(じょうよ)が再建を発願、41年に丈六の木造坐像が建つ。しかし、1900年の大火で焼失。松木宗左衛門は同寺良禅と協力し、不燃の鋳造仏(ちゅうぞうぶつ)を発願。09年、中野双山(そうざん)に原型(げんけい)を依頼。その後、資金難等で中断したが、荻布宗四郎(おぎのそうしろう)の寄付により再開。33年に完成した。58年円光背(えんこうはい)を載せ、78~82年に補修、参道整備がなされ、11m後退した。毎年9月23日に大仏まつりが開催されている。
高岡市立博物館

高岡市立博物館提供

高岡市立博物館提供

高岡市立博物館提供
1970年開館(前年の高岡開町360年・市制80周年記念事業)。歴史都市・日本遺産に認定される高岡の歴史・民俗・伝統産業等の資料を収集保存、調査研究、展示、教育普及等を実施。国指定史跡であり、富山県内唯一日本百名城の高岡城跡(高岡古城公園)内に立地しており、日本百名城スタンプラリーのスタンプ設置所でもある。市公式マスコットキャラクター「利長くん」は2007年博物館のキャラクターとして誕生した。
1951年の高岡産業博覧会の美術館パビリオンとして建築された旧高岡市美術館を1998年より常設展示場として活用。常設展は2007年にリニューアルし、クイズ・体験コーナーなどで楽しみながら高岡の歴史文化を学ぶことができる。特別展や企画展・館蔵品展をはじめ郷土学習講座・古文書講座なども実施。
主な収蔵資料は前田利長書状や、市域町村の古文書などの歴史資料、高岡の伝統産業・工芸である金工・漆芸などの製作用具・下図類や民俗資料、郷土の美術資料なども収蔵している。
射水(いみず)神社

上:大鳥居 高岡市提供 / 下:外拝殿 高岡市立博物館提供

木造男神坐像(重文) 高岡市立博物館提供

絵葉書「国幣中社射水神社」(1918~32年頃) 高岡市立博物館蔵
高岡古城公園(高岡城本丸跡)内にある延喜式内社(えんぎしきないしゃ)。初詣や七五三、結婚式など広く市民に親しまれている。元は越中(えっちゅう)射水(いみず)郡の二上(ふたがみ)山麓(高岡市)に鎮座し、山そのものを祀る自然信仰の社であった。祭神は二上神〔明治以降は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)として祀る〕。社名は当社を信仰した豪族「伊弥頭(いみづの)国造(くにのみやつこ)」に由来するとされる。717年、勅令(ちょくれい)により僧行基(ぎょうき)が別当寺として養老寺を建立したと伝える。「二上大権現(だいごんげん)」と称し、隆盛を極めた。780年に従五位下(じゅごいのげ)となり、859年には越中で最高位の「正三位(しょうさんみ)」となった。927年の「延喜式神名(しんめい)帳」には越中唯一の「名神大社」とあり、また平安後期の『白山之記(しらやまのき)』には「越中一宮(いちのみや)」とある。
中世、養老寺(真言宗)は当社を支配したが、中世末期の戦乱によって衰退。神体は欅一木造(けやきいちぼくづくり)の男神坐像(重文)。江戸時代は加賀藩前田家の祈祷(きとう)所となり、越中全土から軒別(のきべつ)1升の初穂知識米(はつほちしきまい)の徴収を許され、1870年まで続いた。
71年二上大権現を射水神社と改称し、越中最高位の「国幣中社(こくへいちゅうしゃ)」となる。75年二上村氏子の反対のなか廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮に乗じ、現在地に遷座した。氏子の願いで旧地には分社を創立。戦後に独立して「越中総社射水神社」となる(通称は二上射水神社)。城内の射水神社は1900年の大火で焼失、02年再建した。
高岡城跡(前田利長騎馬像)

高岡市提供

高岡市提供

高岡市立博物館提供
国指定史跡、富山県唯一の日本百名城。射水(いみず)平野の高岡台地上の平城(ひらじろ)。面積217,694㎡の内81,071㎡(約37%)が水堀で占める。城は本丸の周囲に大小6つの郭(くるわ/城内の広場)を配し、土橋(どばし)で連結される。本丸以外の全ての郭は強固な「馬出(うまだし)」である。現在も各郭の形状や水堀はほぼ完全に残り、日本の築城技術の粋を知ることができる。
1609年3月18日、加賀前田家2代当主・前田利長は隠居(いんきょ)していた富山城を焼失した。利長は前田家領(富山・石川県)のほぼ中心(重心)にあたる「関野」の地を選び、新たに築城し、城下町を造成した(のち利長は関野を高岡と改めた)。同年4月6日付けで徳川家康から新規築城の許可を得て工事に着手し、領国(りょうごく)から約1万人が動員された。大火から半年、同年9月13日、利長は未完成の城に入城(高岡開町)。伝承では高山右近が設計を行ったとされるが、60通弱伝わる利長の書状に右近の名は無く、利長自ら積極的に築城を指導したことがわかる。1614年利長は没し、大坂両陣後の一国一城令で廃城。のち藩の米・塩・焔硝(えんしょう/火縄銃の火薬原料)等の蔵となった。
なお、本丸北隅の前田利長騎馬像は1975年に造立された(原型は市内の米治一)。
ポンポン山

ポンポン山(1996年頃) 樽谷雅好氏撮影
高岡城跡(高岡古城公園)本丸より北東約800mにある伝承地。通称は「ポンポン山」、また「ボンボン山」ともいい、正式には「入定塚(にゅうじょうづか)遺跡」という(のち単に定塚といわれた)。伝承では中川村熊野権現(ごんげん)社の祖先の本明院利長坊(ほんみょういんりちょうぼう)という山伏が入定(にゅうじょう/宗教的自殺)した塚とされる。利長坊が塚に入ってしばらくは、読経(どきょう)の声と、ポンポンと打つ太鼓の音が響いていたが、徐々にその音は弱まり、ついには聞こえなくなったことからこの名がある。高岡城の鬼門(きもん/北東)に位置し、その鬼門除(よ)けとしたともされる。
『宝永誌』では「塚の周囲約55m、高さ約5.5m」とある。慶長14年(1609)に高岡を築城した前田利長は利長坊の生まれ変わりであるという。
また『重輯雑談(じゅうしゅうぞうだん)』では「高岡築城中、堀を掘っていると棺を掘り出した。古い棺で「利長坊」という札があった。利長公は「元の如(ごと)く棺を埋めよ」と仰(おお)せられ、三の丸の外、北東の隅に改めて埋めた」とある。
山町(やまちょう)ヴァレー

高岡市提供

山町筋(木舟町から守山町を望む)大正初期 高岡市立博物館提供
商都高岡の象徴である重伝建「山町筋(やまちょうすじ)」の小馬出町(こんまだしまち)にある。もと文房具問屋の「谷道文開堂」をリノベーション(大規模な改修工事)した複合施設である。2017年オープン。現在、雑貨や飲食、伝統工芸の店などの8つのテナントが入る(うち5棟は明治期の土蔵)。中庭ではライブなどイベントスペースとしても活用される。
谷道家は初代岩次郎が1895年、現高岡市三女子(さんよし)で小間物(こまもの/日用品類)、巻紙(手紙用の長く巻かれた紙)などの行商から始め、のち定塚町(じょうづかまち)に谷道商店を開業。1901年、坂下町に移転し、現コクヨとも取引をはじめた。15年には現在地に進出。29年に洋風の木造3階建に整備拡張した。まさに「タカオカン・ドリーム」を実現した家といえる。その後も富山に進出するなど事業を拡大したが、2010年に廃業した。
その後は空き家であったが、地元の有志が立ち上げた会社〈町衆(まちしゅう)高岡〉が、国県市の補助を得て土地を借り上げ、建物部分を購入した末広開発の委託を受け、2016年から3年かけて建物を改修した。高岡中心部の活性化の一翼を担っている。
山町筋(菅野家/すがのけ)

高岡市提供
旧北陸街道沿いで高岡経済の中心「山町筋(やまちょうすじ)」には豪壮な土蔵造(どぞうづく)り建築が並び、国選定重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)となっている。木舟町(きふねまち)の菅野家住宅はその代表格で規模、質、保存度とも最も優れており、1994年に国重要文化財に指定されている。
菅野家は明治前期に5代伝右衛門(でんえもん)が北海道との通商で巨万の富を築いた高岡有数の商家。6代以降は銀行・紡績(ぼうせき)・電灯会社などを起業し、商業会議所会頭なども務める一方、政界にも進出し、高岡政財界の中心的な存在として活躍した。
1900年6月、高岡市街の6割近くを焼失したという大火がおこる。しかし山町筋の豪商らは次々に豪壮な防火建築である「土蔵造り」の住宅を建て始めた。菅野家も僅か2年後の1902年に約10万円(現在の約20億円)の巨費を投じて建てられた。菅野家の壁面は黒漆喰(しっくい)を塗り、2階には観音開きの扉を付け、屋根には鯱(しゃち)と雪割瓦を備えた大きな箱棟(はこむね)を付ける等高岡の土蔵造りの特徴を全て備えている。
高岡御車山(みくるまやま)会館

高岡市提供

高岡御車山祭 高岡市提供
ユネスコ無形文化遺産・国指定重要有形無形民俗文化財「高岡御車山祭(みくるまやままつり)」をいつでも体感できる施設。2015年オープン。毎年5月1日に開催される祭りは高岡関野神社の春祭り。商都高岡の中心、重伝建「山町筋(やまちょうすじ)」の守山町(もりやままち)にある。高岡最古の町医者・佐渡家跡に立地し、その屋敷の面影を残している。
7基の御車山が4ヶ月に一度順番に展示替えされ、通年で観覧できる。また4Kの高精細画質で観る「シアター」では、祭の準備から祭礼当日を追体験することができる。展示は体の動きに合わせて「車輪」を動かすことができる映像体験装置を備えている。法被(はっぴ)の着付けやゲームコーナー、企画展示も開催される。
土蔵棟は実際の佐渡家の土蔵で、1695年築(1824年移築)という県内最古級の「中の蔵」では、「山町筋と土蔵」をテーマに山町や当蔵の建築、復原について展示。1825年築の「大の蔵」では「山町と佐渡家」をテーマに「高岡最古の医家・佐渡家」について展示されている。
有礒正八幡宮(ありそしょうはちまんぐう)

高岡市提供

青銅随神像(一対のうち) 高岡市立博物館提供

御印祭 高岡市提供
旧北陸街道、高岡町西の出入口の曲がり角に鎮座。主祭神は有礒神・綏靖(すいぜい)天皇・応神(おうじん)天皇。横田正八幡宮と有礒神社が合祀(ごうし)。横田正八幡宮の創建は不詳だが、1712年には史料にみえる。千保(せんぼ)川淵に鎮座しており、1786年の書上帳には洪水により現在地に移転したとある。有礒神社の創建も不明。当初は有磯海(富山湾)の雨晴(あまはらし/高岡市)付近に鎮座していたが波の浸食を避け、高岡志貴野(しきの)の山に遷(うつ)され、1612年に横田正八幡宮に合祀されたと伝わる。
摂社(せっしゃ)の琴平(ことひら)社には金屋町の氏神、石凝姥命(いしこりどめのみこと/鍋宮)・前田利長等の「金屋四神」が祀られる。毎年6月19・20日(利長の命日)の「御印祭(ごいんさい)」では鋳物師の作業唄発祥の「弥栄節(やがえふ)」の町流しがある。
社殿4棟は国登録有形文化財。本殿は1883年、松井角平の手になる。千鳥破風(ちどりはふ)を重ねた銅板葺(ぶ)きの屋根が特徴で「有礒造(づくり)」とよばれる。本殿と拝殿(はいでん)をつなぐ釣殿(つりどの)は、1935年造営。境内(けいだい)には皇太子(大正天皇)行啓(ぎょうけい)時の御用水や、親子抱き合いのケヤキ等が点在。鳥居の左右には「青銅随神(ずいじん)像」(市文)もある。
金屋町(鋳物資料館)

高岡市提供
高岡の伝統産業、鋳物(銅器)発祥の町。前田利長は1609年、高岡に新城と城下町を造成し、各地から職人を集めた。鋳物師(いもじ)は砺波(となみ)郡西部(にしぶ)金屋(現高岡市戸出)より招いたことが「年未詳5月30日付前田利長書状」(高岡市立博物館蔵・市文)よりわかる。しかし年代は不明で、1611年「七人衆」創始説は後世の記録である。
利長は鋳物師に千保(せんぼ)川(当時は大河)対岸の5千坪の土地〔拝領(はいりょう)地〕と地代免除等の特権を与えた。当初は鍋釜等の鉄鋳物を製造した。藩、及び鋳物師を支配した真継(まつぎ)家の保護も得ながら発展した(のち真継家の登録者数で日本一)。
江戸中期以降、銅器製造もはじまる。花瓶・火鉢や梵鐘・台灯籠などを製造し、銅器問屋が全国に販売した。塩釜・ニシン釜・風呂釜などの鉄釜は昭和前期までの「ヒット商品」である。戦後はアルミへの転業も相次いだが、仏具や記念品、梵鐘・ブロンズ像などを盛んに製造した。
また金屋町にある鋳物資料館では、高岡鋳物の歴史と伝統を紹介している。
総持寺(かんのんでら)

高岡市提供

木造千手観音坐像(重文) 高岡市立博物館提供
総持寺(そうじじ)は真言宗の寺院で山号は衆徳山(しゅうとくさん)。白鳳時代の創建と伝わる。本尊の木造千手観音坐像は国指定重要文化財で、通称は「かんのんでら」。
元は後醍醐天皇の庄園・吉岡庄の赤丸村(現高岡市福岡町)にあったと伝わる。1353年に南朝方の河内(かわち)国(現大阪府)金剛寺25世禅恵(ぜんね)が、同年作の観音像を願主となり寄進(きしん)し、中興(ちゅうこう)となった。1405年、五位(ごいの)庄(吉岡庄改め)を足利義満が相国(しょうこく)寺へ寄進した際に、小矢部(おやべ)川河口右岸の六渡寺(ろくどうじ)村の浜へ移転したという(浜総持寺)。千手観音像は六渡寺浜より上がったとも伝わる。
現在地への移転は前田利長の高岡開町(1609年)以前と伝わる。当寺22世快雄(かいゆう)は利長の求めに応じ、当時「関野」と呼ばれていたこの地を、中国の古典『詩経(しきょう)』の一節にちなんで「高岡」という地名にするよう提案したと伝える。
本尊は檜材寄木造(よせぎづくり)で玉眼(ぎょくがん)入り11面42手、像高81.5cm。胎内銘(たいないめい)が多く、願主や制作年、大仏師(だいぶっし)は幸賀(こうが)、小仏師は頼真(らいしん)等と判明し、貴重である。毎年11月15日に開帳。また「六十六部の石仏」38体が寺を囲んでいる。
瑞龍寺

高岡市提供

左:高岡市提供 / 右:高岡市立博物館提供

高岡市提供
富山県唯一の国宝寺院(曹洞宗)。山号は高岡山(こうこうざん)。1613年、加賀前田家2代当主・前田利長が高岡で建立した宝円寺(近年の研究で「法円寺」より改め)が前身。翌年没した利長の法号(ほうごう)瑞龍院にちなんで改称。3代利常は46年33回忌法要を行い、51~53年同寺の大改修を起工。56年には大部分ができるが、50回忌にあたる63年に完成した。寺域も36,000坪と広く、当初は周囲に二重の水堀をめぐらし、城郭の姿を呈したという。
瑞龍寺は左右対称の伽藍(がらん)配置が特徴。山門(さんもん)・仏殿(ぶつでん)・法堂(はっとう)などの七堂伽藍を備え、〈伽藍瑞龍〉とも呼ばれる。仏殿の屋根は鉛瓦葺(なまりがわらぶ)きで、弾丸に転用するためともいう。維新後、前田家の支援が途絶えると困窮したが、国の特別保護建造物(のちの国宝)に指定され、1935~38年に大改修が行われる。1985年からも大修理が始まり、95年に完成。97年に仏殿・法堂・山門が国宝に指定(回廊等は重文)。
瑞龍寺-八丁道(はっちょうみち)-墓所のラインは高岡城の弱点である南方にあり、利常の深謀遠慮(しんぼうえんりょ)ともされる。
前田利長墓所

高岡市提供
加賀前田家2代当主・前田利長の墓。国指定史跡(2009年に金沢市の野田山(のだやま)・加賀藩主前田家墓所と共に)。規模は大名個人墓所では日本一といわれる。利長は1609年3月の富山大火後の9月に新たに高岡城、及び城下町を築いたため〈高岡の開祖〉と仰がれる。14年に没し瑞龍院と追号(ついごう)された。33回忌の46年に向け、義弟(ぎてい)の3代利常(としつね)は菩提寺(ぼだいじ)瑞龍寺の東に墓所を設けた。
墓域は当初、二重の水堀で囲まれ、約180m四方で面積は約1万坪(約33,392㎡)を誇った(現在は約4分の1)。中心に15.5m四方の御廟(ごびょう)が位置する。基壇(きだん)は戸室石〔とむろいし/金沢東部産の安山岩(あんざんがん)〕で築かれ、その上に高さ11.9mの花崗岩(かこうがん)の笠付墓標(かさつきぼひょう)を建てる。しかし、調査の結果、内部構造は歴代藩主墓同様の土盛墳墓(どもりふんぼ)であり、初代利家墓(最大幅20m、高さ5.7m)を上回らず、造墓(ぞうぼ)原理があることが判明した(墓標を除く利長墓の高さ5m)。基壇の130枚もの蓮華図は狩野探幽(かのうたんゆう)の下絵と伝わる。
また、水堀の蓮の花や正面右側にある高さ6.3mもの大型石灯籠は見どころ。
繁久寺(はんきゅうじ)

高岡市提供

高岡市提供

五百羅漢 高岡市提供
繁久寺(曹洞宗)の創建は1562年、射水(いみず)郡南条〔飯久保(いくぼ)〕城主・加納中務(なかつかさ)による。山号は仙寿山。本尊釈迦如来。1646年、前田利常の命により前田利長墓所の御廟守(ごびょうしゅ)の寺として現氷見市飯久保より遷座したので、以降前田利常を開基としている。4世滑洲(こっしゅう)は利長の帰依(きえ)厚く、守山在城時(1585~97年)にしばしば城に招かれたという。1650年、寺禄(じろく)50石を与えられる。1859年の火災で伽藍(がらん)を焼失、62年に再建された。
もとの本尊・木造観世音菩薩立像(かんぜおんぼさつりゅうぞう/県文)は鎌倉初期作とされる古仏。氷見の飯久保より遷座(せんざ)したものだが、前田利長墓所内の鎮守堂本殿(ちんじゅどうほんでん/現高岡市五福町の神明社本殿)に遷座。さらに1927年、観音寺〔高岡市城光寺(じょうこうじ)〕の創建の際に遷座された。観音寺開山(かいざん)の繁久寺25世・在田如山(ありたにょさん)は、1917年高岡養老院を創始した(現特別養護老人ホーム志貴野長生寮)。
また、回廊の玉眼彩色(ぎょくがんさいしき)された木造五百羅漢像は明治後期以降、近隣よりの寄進によるもの。豊かな表情は見ていて飽きない。
木町(きまち)

木町の舟着き場(大正期) 高岡市立博物館提供

木町文書「前田利長書状」(1609年4月12日付) 木町神社蔵 (高岡市立博物館提供)
1609年、前田利長による高岡築城と城下町造成の際、建設資材集散基地として置かれた〈高岡最初の町〉。小矢部(おやべ)川と千保(せんぼ)川の合流点右岸。高岡町の35ある本町(ほんまち)の一つで、富山と守山木町の材木商を呼び寄せた。当時の千保川は庄(しょう)川の本流で,小矢部川との合流点は淵をなし、外海船(とかいぶね)は木町まで遡(さかのぼ)ることができた。神通(じんづう)川以西の<川西七浦>の津頭に命じられた。そして小矢部川本支流の収納(年貢)米輸送や、上下諸荷物の長舟(ながぶね)運漕を支配する特権、材木・竹・薪炭などの専売権を与えられた。また藩主の参勤交代には小矢部川や諸河川の仮舟橋架設御用を負う。
しかし1714年に完成した千保川改修で水量が減ると、港津(こうしん)の地位は伏木(ふしき)へ移る。1695年の木町所持長舟は239艘を数え、長舟運漕は明治期まで続く。1773年の家数130軒、人口716人。当時は舟持35軒、木材商が46軒もあった。「前田利長公御親書」3通(市文)をはじめとした「木町文書」(588件)は加賀藩海運史を知るうえで最も優れた史料である。
二上山(守山城跡)

上:高岡市提供 下:高岡市立博物館提供

上:守山城本丸 高岡市提供 / 下:守山城石垣 高岡市提供

小矢部川左岸にそびえる二上山(ふたがみやま)は高岡・氷見市境にある標高274mの山。西峰の城山(しろやま/標高259m)一帯には守山城が築かれた。山中には自動車道「二上万葉ライン」が走り、誰でも突ける鐘では国内最大級の「平和の鐘」や、平和観音像、大伴家持像、仏舎利塔などがある。
山そのものがご神体であったが、やがて二上神として射水(いみず)神社に祀られ、717年には僧行基(ぎょうき)が二上大権現(だいごんげん)を祀る養老寺(ようろうじ)を開いたとされる。越中国司大伴家持は、自ら編纂した『万葉集』に二上山周辺の情景を詠み込んでいる。
越中西部の政治経済の拠点であった守山城は、松倉城(現魚津市)・増山城(現砺波市)と並び、〈越中三大山城〉と称される。城は1344~52年頃に越中守護の桃井(もものい)氏が築いたと考えられ、のち守護の斯波氏・畠山氏らが入城。麓には城下町も造成された。
のち守護代神保(じんぼ)氏の拠点・放生津(ほうじょうづ)城の詰城となる。戦国末期には神保氏張(うじはる)が居城し、佐々成政(さっさなりまさ)の将として活躍。しかし1585年成政が豊臣秀吉に降ると前田利長が入城。97年まで居城としたが、翌年廃城となった。
影無しの井戸

高岡市提供
高岡台地の西の際にあり、「とやまの名水」に登録されている井戸。どんな日照りでも水が涸れないといわれ、影無し坂にあることからこの名がある。その由来は、この井戸の水面に顔が映らなかった人が病死したとも、「孝子六兵衛(こうしろくべえ)」として有名な一番新町の石瀬屋(いしぜや)六兵衛(1755~89)が、影の無い不思議な老人に会ったからともいわれる。六兵衛は老人に、福を与えると言われた通り、富くじに当たり、そのお金で井戸を掘ったとも伝えられる。幼くして父を亡くした六兵衛は、大変な酒飲みであった母の孝行に尽しながら、日雇い仕事で懸命に極貧生活を支えていた。その噂はいつしか藩に伝わり、終身三人扶持(ぶち)を賜わり、諸税免除となった。1807年、由緒町人で学者の富田徳風らは六兵衛ら高岡の徳行者約百人の話を集めた『高岡湯話』を出版した。また09年には六兵衛の顕彰碑を建立。人々はそれ以来現在まで毎年祭祀を行っている。ちなみに徳風は1806年、この場所に越中初の学校「修三堂」を開設した。