福井城

イメージ:福井城

天正3年(1575年)に越前一向一揆を平定した織田信長は、この戦いの功績により柴田勝家に越前国8郡49万石を与えました。勝家は福井平野の南東部を流れる足羽川北沿いに北ノ庄城を築き、合わせて城下の整備を行いました。しかし、それからわずか8年後の天正11年(1583年)4月14日に、羽柴秀吉軍の攻撃で北ノ庄城は落城し、勝家は夫人のお市の方とともに自害しました。
その後、慶長5年(1600年)12月、徳川家康は次男の結城秀康を越前国13郡68万石の領主としてこの地に封じました。秀康は翌6年(1601年)9月より、勝家の北ノ庄城を改修・整備しながら、6年の歳月を要して新たに北ノ庄城を築きました。「北ノ庄」という地名は、3代藩主・松平忠昌によって、北の字は敗北につながるとして「福居」と改称され、その後さらに「福井」となりました。
築城から60余年後の寛文9年(1669年)4月15日、城下東南の永雲寺門前より出た火は福井城や城下の大半を焼き尽くす大火となりました。福井藩は5万両の大金を幕府から借り入れ、御殿や櫓、門などの再建にあたりましたが、天守だけはこれ以後も再建されることがありませんでした。
明治4年(1871年)、福井藩が廃止されると、城内の建物や施設は取り払われ、堀も次第に埋め立てられました。現在ではわずかに本丸と天守台およびその周囲の内堀を残すのみとなっています。

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